監督・脚本:黒澤明、撮影:原譲治、編集:矢口良江、音楽:鈴木静一、主演:矢口陽子、入江たか子、1944年、85分、製作会社:東宝、配給:映画配給社(紅系)
大東亜戦争終盤、国家総動員法の下、軍需工場で働く女子挺身隊の少女たちの生きざまを、その少女のまとめ役である青年隊長・渡辺ツル(矢口陽子)の心情と、少女たちの寝泊まりする寮の寮母・水島徳子(入江たか子)の慈愛を中心に描いた作品。
東亜光学平塚製作所は、戦闘機などに搭載される光学機器を生産している。戦時非常態勢になってきたとして、所長の石田五郎(志村喬)は、生産倍増計画を発令した。男子工員は通常の2倍、女子工員は1.5倍という目標数値が出されるが、渡辺ツルを代表とする女子工員たちは、女子だからと男子より控えめにするのではなく、むしろ、男子の3分の2を目標にしてくれと頼みこみ、会社に受け入れられる。女子たちの働きぶりもあり、生産量は上昇するが、ひとりがケガで実家に帰ったことから始まり、予測不能な事態が相次ぎ、生産量は減少してしまう。・・・・・・
戦意高揚映画とも言われる。配給の映画配給社自体、1942年2月に設立され、1945年8月15日に解散させられていることからも明らかだ。作品を通じ、暗に反戦をうったえたかった、とも言われるが、時代を考えればわかるとおり、暗に、といえども、反戦的色彩のある映画など作れるわけもなく、映画配給社が当時の映画業界大手の東宝や松竹、大日本映画(後の大映)の出資による国策会社であることからしても、そこに雇われた黒澤が、反戦映画を作れるわけがない。
映画は、いかなる映画といえども、脚本・カメラワークで観てみてはいかがだろう。
本作品は、黒澤自身が脚本を書き、監督している。話をうまく紡ぎ出して次のシチュエーションにつなげている。脚本の基本だ。戦争中、銃後の守りの一翼を担う若い女子たちは、こうして工場で、毎日、お国のため、戦地で戦っている兵隊さんのため、と、必死にものを作っていた。そのけなげなようすは、自覚をもった行動や、弱みを見せてひとりだけ働かないでいることを忌み嫌う心理、病気が治癒すればまたすぐにでも一線で働きたいという前向きな意志をあらわす彼女らの台詞に表わされている。
上司(菅井一郎)に勧められて、ツルたちはバレーボールをするシーンは、ここで動き回る女子たちは、今の高校生の女子たちと何ら変わらない、と思わせるほど活気がある。いやなことがあっても、からだを動かすことで、笑顔を取り戻す。複数人でおこなうスポーツは、自然とチームワークの大事さを教えてもくれる。
カメラは脚本に忠実で、奇を衒った撮りかたはないものの、熱があることを言わないでほしいという女子とツルとのやりとりのシーンでは、ショットごとに近付いて、また遠ざかる、といったわざとらしい動きを見せ、終盤、ツルと一部女子が言い合いになるシーンでは、バレーボールのシーンでは俯角もあったカメラが、こちらでは決して上から彼女らをとらえず、真横または仰角に彼女らの表情をとらえ続けている。本作品でのカメラワークの演出はシンプルであるが、「わざとらしさ」や、あえてそうしないといった「不作為」も、カメラ演出であることを教えてくれる。
寛容で親切な寮母や上司たち、彼女らのアドバイスのおかげで、女子たちは多少のいざこざや病気を乗り越え、また生産量は上昇し始めていく。その象徴となるのが、まさに隊長のツルであり、繰り返し映されるその正面からのアップの表情に、単なる労働者というより、日本国民の一人としての自覚さえ窺うことができるのである。露骨な創作キャラがあるとすれば、時代からして、寮母や上司のほうであろう。
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