監督:市川崑、脚色:和田夏十、原作:島崎藤村、企画:藤井浩明、製作:永田雅一、撮影:宮川一夫、編集:西田重雄、美術:西岡善信、録音:大角正夫、照明:岡本健一、音楽:芥川也寸志、主演:市川雷蔵、1961年、119分、配給:大映
瀬川丑松(市川雷蔵)の父(浜村純)が、牛の角に突かれ死ぬ。遺体は掘っ立て小屋に運び込まれる。丑松親子は被差別部落民であるから、普通の人々のように、遺体を寺に安置したり、まともな通夜を上げたりすることができない。その小屋へ、どこで聞きつけたか丑松がやってくる。丑松の叔父(加藤嘉)は丑松を小屋から離れたところに呼び、このまま引き返せと言う。丑松の父は、部落民ということを隠し、おまえに教育をほどこして教員にまでさせてくれた、いまおまえが現われたら、亡き父の思いは水の泡になる、というのだ。だが丑松は叔父に頼み込み、ようやく亡き父の顔を拝むことができた。
丑松は学校にいても自分の素性を隠さざるを得なかった。一番親しい同僚の土屋銀之助(長門裕之)でさえ、部落民を特殊な部類の人間たちと考えていた。そんな丑松の心の拠り所となるのは、被差別部落解放運動を進める猪子(いのこ)蓮太郎(三國連太郎)の著書『懺悔録』であった。丑松は近くの蓮華寺に越した。そこには、住職(中村鴈治郎)とその妻(杉村春子)のほかに、養女の志保(藤村志保)がいた。・・・・・・
部落民の心情や辛い立場を、丑松という若い教員の姿を通じて描き出していく。長野県の山間の町が舞台であり、多くのシーンは雪深い山々の中にとらえられている。閉塞的で差別意識の強い社会にあって、丑松やその家族、そして部落民の虐げられた思いが彷彿とする。
丑松は一度、猪子蓮太郎に会い、話もしているのに、丑松に会うため突然寺に現れた猪子に対しては、あなたを知らぬ、と言い切ってしまう。猪子の演説会にも行きたいほどの気持ちをもちながら、丑松の心は最後まで揺れ続ける。猪子との出会いは、本作品の一方の軸である。
いろいろな噂が学校にも飛び、丑松は皆が、自分を部落民と疑っていることを知る。教壇に立った丑松は、これが最後の授業だと前置きし、涙交じりに自らの出生について、生徒たちの前で告白し、土下座までして謝罪する。土屋たちが駆けつけ抱き起こすが、身分を明かし、職場まで去らせるきっかけとなったのは、猪子の死であり、周囲の白い目であった。
この教壇での丑松なりの懺悔のシーン、単に転勤で学校を変わる教員の別れの挨拶とは異なる。その後、猪子の妻(岸田今日子)と話すシーン、ラスト近く、猪子と丑松を見送るシーンはすばらしい。
土屋に引率されて生徒たちが見送りに来る。丑松は、使い古した辞書を一冊、生徒たちの残すが、生徒の一人が、母親がゆで卵を作ってくれた、と言って丑松に渡す。部落民であろうと、先生であることをその親は理解してくれた、という証しである。遠くに志保の姿も見え、志保は丑松と添い遂げることを誓う。志保とのなりゆきは、もう一方の軸である。
優れたストーリー展開、明治30年代の農村をありのままに捕えるカメラ、若手からベテランまで並んだ俳優陣の演技力により、品格をもった作品に仕上がっている。
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