映画 『失われた週末』

監督:ビリー・ワイルダー、脚本:チャールズ・ブラケット、ビリー・ワイルダー、原作:チャールズ・R・ジャクソン、製作:チャールズ・ブラケット、撮影:ジョン・サイツ、編集:ドーン・ハリソン、音楽:ミクロス・ロージャ、主演:レイ・ミランド、ジェーン・ワイマン、1945年、101分、配給:パラマウント映画、原題:The Lost Weekend


後に製作されるブレイク・エドワーズ監督の『酒とバラの日々』(1962年)と並び、アルコール依存症を扱った映画だ。ビリー・ワイルダーとしては、『深夜の告白』(1944年) に継ぐ作品。


ニューヨークのビル街のアパートに住むドン・バーナム(レイ・ミランド)は、売れない小説書きだが、アルコール中毒の男である。兄・ヴィック(フィリップ・テリー)と、ドンの恋人・ヘレン(ジェーン・ワイマン)が今までいろいろ手助けをしてきたが、一向に治っていない。今週末、ヴィックは、ドンを旅行に連れ出して酒を忘れさせようとするが、そこへ見送りに訪ねてきたヘレンは、クラシックコンサートのチケットを2枚持っていた。ドンは、二人をコンサートに行かせ、少し遅い列車に替えて、あとでウィクと駅で待ち合わせをすればよい、と提案する。そのわずかな時間でも、ドンは二人に隠れて酒を飲もうという魂胆だったのだ。ところが、窓の外にロープで吊るしてあったボトルをヴィックに見つかってしまう。ヴィックはその酒瓶を割り、中身を捨て、カネも置かぬようにして、ヘレンとコンサートに行く。残されたドンは、酒を飲むこともできず、へやに閉じ込められたが、給料をとりに来た掃除婦に、ドアを施錠したまま、兄はいつもどこに置いているか、を聞き出す。砂糖入れの蓋の内側に札が折って隠してあることを知ると、掃除婦には、見つからない、と嘘をつき、追い返す。ドンはそのカネを持って、顔馴染みのナット(ハワード・ダ・シルヴァ)の酒場に行く。ナットは、ヴィックから、ドンが来てもツケでは飲ませないように、と言われていたが、今日のドンはカネを持っており、断ることはできなかった。・・・・・・


イントロで、ニューヨークのビル街が映され、右へパンすると次第にアパートの一室を映し出す。窓には、紐で吊るされた酒瓶があり、カメラが中に入ると、ドンが荷造りをしている。このイントロは、ヒッチコックが『サイコ』(1960年)でも採用しており、当時のアメリカ映画にしばしば見られる。本作品では、ラストにまたこの窓が映され、イントロと逆に、カメラは左にパンし、ビル街を映してエンディングとなる。


『深夜の告白』もそうだが、台詞の応酬が多く、シーンによっては掛け合いのようになる。その際、カメラは固定なので、観る側は台詞に集中するが、密度の濃い会話シーンが終わると、一定の間があり、緩急を使いわけていることがわかる。

室内シーンが多いので、カメラのアングルや被写体との距離、パンなどが、台詞や展開のスピードに比例していて、ぎこちなさがない。


何かにつけドンは自己中心的に振る舞い、酒を飲まずにはいられないほどの中毒に犯されている。カネがなくなると、自分の仕事に使うタイプライターまで質に入れようとする。早朝、どさくさに紛れて病院を抜け出したドンは、ようやく開いた酒屋に入り、店主の目の前で酒を奪っていく。こうなると、アルコール依存症もほとんど重症の領域だ。


病院に戻ることも拒否し、将来を悲観したドンは、付き添ってくれたヘレンが寝ている間に、彼女のコートを持って質屋に行く。ヘレンがその質屋に行くと、かつて質入れした拳銃を、コートと好感して質受けしたのだった。ヘレンはアパートに戻り、ドンに対し、自殺しても始まらない、など、必死の説得を試みる。そのせいもあり、ドンは、自らの依存症について書くことを決意する。ハッピーエンドとまではいかないが、希望をもたせた終わりかたにしている。


濃密なストーリー展開とそれを活かすカメラワークで、映画としての<遊び>はなく、シリアス一辺倒の作品となっている。ややもすればエンタメ性に欠けるおそれがありながら、そうならなかったのは、映像のなせるわざであろう。天井から下がるライトの上に隠してあったボトルが透けて見えるシーン、ドンが幻覚に襲われ、壁の穴からネズミが覗くシーン、依存症患者を収容する病院内で、夜になると騒ぎ出す患者たちのシーン、など。そして、意外にも、カメラはよく街の中に出ていることにも注目しておきたい。


また、レイ・ミランド、ジェーン・ワイマンの確かで真剣な演技力あってこそ、メッセージ性の強い映画となった。アルコール依存症の実態や悲劇をリアルに描写した映画として、他に例を見ない作品となっている。


日常性の地平

映画レビューを中心に、 身近な事柄から哲学的なテーマにいたるまで、 日常の視点で書いています。