監督:清水崇、脚本:保坂大輔、清水崇、撮影:福本淳、編集:鈴木理、音楽:大間々昂、主演:山田杏奈、山口まゆ、2021年、117分、配給:東映、製作:「樹海村」製作委員会(東映、TBSテレビ、東映ビデオ、電通、アスミック・エース、山陽鋼業、ブースタープロジェクト、ダイバーシティメディア、全日本プロレス、竹書房、ニッポン放送、LINE、DLE)
CG、VFX等や大がかりなセットや美術、裾野市内のロケなど、豪華絢爛な材料を元にしながら、ストーリー性が明確でなく、おまけに、映画において最も需要なエンタメ性が盛り込まれずじまいに終わっている。
この監督が、和製ホラーを次々に発表していることからすれば、それなりの自身の路線や製作信念というものをもってはいるのだろう。とすると、この監督のファンからあまり好評を得ていないのはなぜなのだろうか。この監督は脚本も兼ねているが、脚本は二人いる。どのような協力体制であったのか知る由もないが、本作品がおもしろくないのは、偏(ひとえ)に脚本の「不出来」ゆえであろう。
おそらく<聡明な>人物が書いたのであろうと想像できるが、映画の脚本は観る側の感性を考えていないと、自己充足で終わるおそれがある。監督と脚本が同一人物ひとりである場合、思い切って台詞を切ることができず、編集においても思い切ってフィルムを捨てることができない。ましてや、製作陣に、テレビ局、放送局、広告会社が並んでいるところをみると、製作費は稼げたろうが、いかにも後の広告宣伝や広報の準備のため、<上映不人気・レンタル人気>を見越しているようで、下心が見え透いていて不愉快だ。
聡明な脚本家の書く脚本が、すべて不出来になるとは言えないが、少なくともこの脚本家は、新旧古今東西の「映画を見てきていない」と思われる。従順に映画の技術を勉強し、製作だけに偏(かたよ)った道を歩いてきたのだろう。「映画を見てきていない」脚本家が、ひとり一生懸命ものを書くと、本作品のように独(ひと)りよがりのストーリーになるのだなあ、というよい見本だ。独りよがりとは、一人でよがるのであって、自慰行為に等しい。
人間関係についてはさらっと流されるので、誰と誰が恋人同士であるのか、<念押し効果>がほしかった。祖母(原日出子)も、響(山田杏奈)の入院シーンまで、姉妹の母に見えた。もっと早いところで、「おばあちゃん」といった呼びかけを入れる、姉妹の母はすでに亡くなっている、などの情報を入れるべきであった。出口(國村隼)についても説明がほしい。自殺予防の巡回人とのことだろうが、これも早いうちに見る側に知らせておかないので、自殺した人間の親類なのか、市役所の職員なのか、樹海の歴史研究者なのか、自殺を援助する変態オジサンなのか、判然としない。事実上ファーストシーンに登場する人物についての情報がないので、それ以降すべてがぼやけてしまう。
呪いの箱のもつ力に、統一感がない。どこまでが呪いの箱の<力>によるものなのか不明だ。寺の火事は響の放火ではあるが、なぜ火を放ったのか、祖母はなぜ硬直して手を合わせたまま死んだのか、響の担当医はなぜ飛び降り自殺したのか、その飛び降りに巻き込まれてなぜ阿久津(神尾楓珠)が死んだのか、直前に映る振り返った子供の仕草のもつ意味と飛び降りの関係は何なのか。
エンディング直前のミッドクレジットで、「わしお・ねね」という少女が出てきて呪いの箱を見つける。この箱の呪いは、まだ終わっておらず、鷲尾(倉悠貴)に憑いて回っている、という暗示なのだろうが、鷲尾の描写が途中で終わってしまっているので、このシーンの挿入効果は少ない。
しかし何よりも「不出来」の原因と思われるのは、響を入院させてしまったことだろう。響は元々直感が鋭く、見えないものが見えたりするのだが、それを病気のせいにしてしまったところに最大の原因がある。後半での樹海内でのおぞましい出来事は、響の妄想とリンクしているのだが、響の存在は日常世界に置いておくべきだった。日常のなかにおいて不気味さは意義をもつのに、頭がおかしいというふうに片付けてしまっては、エンタメ性が失われるのも当然だ。したがって、樹海村なるものの位置づけも曖昧なままに終わってしまった。
エンディングに、急死した松本憲人に対する献辞が出る。本作ではクレジットにないが、照明担当として製作に貢献した人物なのだろう。
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