映画 『生きていた男』

監督:マイケル・アンダーソン、脚本:デイビス・オスボーン、チャールズ・シンクレア、製作:ダグラス・フェアバンクス・Jr.、撮影:アーウィン・ヒリヤー、編集:ゴードン・ピルキントン、美術:ポール・シェリフ、音楽:マチアス・セイバー、主演:アン・バクスター、リチャード・トッド、1958年、84分、モノクロ、アメリカ映画、配給:ワーナー・ブラザース、原題:Chase a Crooked Shadow(=歪められた影を追う)


キム・プレスコット(アン・バクスター)は、スペインの風光明媚な海岸沿いに建つ瀟洒な屋敷に、女中を使い、一人で住んでいた。ある晩、深夜1時半過ぎに屋敷でのパーティを終え、室内に戻ると、階段を上ってくる男がいた。その男は、キムの兄であるウォード・プレスコット(リチャード・トッド)と名乗ったので、キムは愕然とした。キムはすでに自動車事故で死亡し、キム自身が遺体を確認していたからであった。

キムは、あなたが兄のはずがない、と否定し、深夜であるにもかかわらず、地元の警察署長バルガス(ハーバート・ロム)に電話し、来てもらった。バルガスが調べたところ、ウォードと名乗る男のパスポートは本物で、兄の証拠となる右手の手首にも錨のタトゥーがあった。ウォードは、キムに無断で、ホイットマン(フェイル・ブルック)という女性の助手や、新たな執事カルロス(アラン・ティルバーン)ら屋敷に入れ、プレスコット家の人間として振る舞うのであった。・・・・・・


本編が終わると、マイケル・アンダーソン監督自身が現われ、結末は口外しないようにお願いしますよ、と言う。ストーリー上、土壇場でどんでん返しがあるからであり、ごもっともだと思う。最後にきて、観る側がストーリーそのものに対して引っかかっていた疑問が氷解する。


映画として長いほうではないが、脚本、展開、カメラワークなどがヴァラエティに富み、さらに充実し、あっという間に見終えてしまう。この時代くらいまでのアメリカ映画は、映画の基本となるところをきちっと押さえており、安心して観ていられる。

サスペンスものではあっても、猛スピードでのドライブシーンや、急に人物が現われるシーンなど、エンタメ性も盛り込まれており、ぎゅっと締まった作品である。


『イヴの総て』で、ベテラン、ベティ・デイヴィスを相手に、一歩も引けを取らぬ演技を見せたアン・バクスターにとっては、本作は余裕をもって演じられただろう。

カメラは、仰角・俯角をうまく使い分け、フレーム内の立ち位置や動きなど、観る側をあきさせないように動いている。


アメリカ映画に限らず、フランス映画も日本の映画も、戦後から1970年代中盤くらいまでの作品が、映画製作の基本を元に、監督であれ、脚本、撮影、照明、編集であれ、そして俳優の演技であれ、それぞれが職人魂をもち、それゆえのプロ意識をもってつくられている。ヌーヴェルヴァーグやアメリカン・ニューシネマといったムーヴメントは、今から見れば時代の産物であったのであり、伝統的な映画づくりまでは拒否できなかったのである。


日常性の地平

映画レビューを中心に、 身近な事柄から哲学的なテーマにいたるまで、 日常の視点で書いています。