監督・製作:フランソワ・トリュフォー、脚本:フランソワ・トリュフォー、マルセル・ムーシー、撮影:アンリ・ドカエ、編集:マリー=ジョセフ・ヨヨット、音楽:ジャン・コンスタンタン、主演:ジャン=ピエール・レオ、1959年、99分、モノクロ、フランス映画、原題:Les Quatre Cents Coups(=400回の殴打)
原題は、フランス語の慣用句「faire les quatre cents coups」(=無分別な生活をおくる)に由来する。
アントワーヌ・ドワネル(ジャン=ピエール・レオ)は、父ジュリアン(アルベール・レミー)、母ジルベルト(クレール・モーリエ)と暮らす小学生であるが、成績が悪いことやイタズラ好きなこともあり、始終教師に叱られており、家に帰っても、両親から、理不尽なほどの厳しいことしか言われないため、日々の生活全体が苦痛でおもしろくなかった。そんななか、唯一の友達は、ルネ(パトリック・オーフェー)であり、アントワーヌが家出をしたときも、親戚の印刷工場などにかくまってあげていた。
カネもなくなり、ルネといっしょに、父親の会社に忍び込み、タイプライターを盗み出そうとするが、守衛に見つかり、父親に警察に連れて行かれる。少年審判所へ送られ、面会に来た母親は、判事の勧め通り、アントワーヌを少年鑑別所に送ることに同意する。鑑別所ではまた、不自由な生活を強いられる。運動の時間に、監視の目を盗み、フェンスの下の穴から脱走する。どんどん遠くに走るうち、海に出る。アントワーヌがカメラのほうを見て、映画は突然終わる。
フランソワ・トリュフォーの最初の長編映画で、自身の生い立ちを映画化したものとされる。実際、トリュフォーは、感化院にいたこともあり、ほぼこうした子供時代を送っておたのだろう。
99分の映画といえば、立派な長編作品だ。セット撮影は限られたシーンのもであり、同じ室内での撮影であっても、学校などはロケで撮っている。そして、その他多くのシーンは、カメラが街中など屋外に出ての撮影であり、これぞまさしく映画といえる。
撮影のアンリ・ドカエは、ルイ・マルの事実上のデビュー作、『死刑台のエレベーター』(1958年)を撮っている。本作品は、ドカエが初めて撮ったシネマスコープ作品である。鑑賞するとわかるが、フレームが横に長い。
いたずら小僧であるアントワーヌの素行は、多くの学校にもいる問題児の代表でもあろうし、教師に引率された生徒たちが、徐々に列から抜けていくシーンなどもあり、映画として興味深い。しかし、アントワーヌ自身には、映画を見るという彼を夢中にさせる趣味があった。両親と映画を見に行くシーンなど、親子には笑顔さえ見られるのだ。
ラストでいきなりカメラが止まることについて、いろいろな解釈があるようだが、トリュフォー自身も言うように、アントワーヌはこのあと入水自殺するのではなく、これから先のことを憂えているのである。将来をどうしようという表情でストップがかかることで、アントワーヌはこのあとどうなっていくのだろうという疑問や心配を、観客に投げかけている。海に入って行って自殺するのなら、そこまで暗示して終わるだろう。そもそも、アントワーヌのような少年が、「これで終わることはない」のである。
ストーリーとして、どうしても一本調子になるのは否めない。一人の人物を追い続ける内容として、脚本はどうしてもそうした映画としてのリスク、或いは、ハンディを背負う。本作品も、監督が脚本を兼ねているが、脚本がもう一人いるだけに救われているほうだろう。
ただし、いろいろなエピソードがあり、カメラも室内・屋外とよく動いているので、観ていて退屈はしない。
子供の話は、多く、親または学校との話との複線で書かれる。本作品はそうではないので、無鉄砲なアントワーヌではあるが、彼の気持ちに共感もできるのである。
映画の世界では、本作品を、「ヌーヴェルヴァーグ」を代表する作品、としている。映画の、それも冒頭に、「亡きアンドレ・バザンの思い出に」という献辞が入り、トリュフォー自身にも、そうした自覚があった証拠だ。
ヌーヴェルヴァーグと称される映画の監督とは、映画界のいわゆる「正規のルート」を通って一人前となった監督ではなく、製作費は自前、撮り方も自身の考えに基づいて撮る監督である。ロケハン中心、即興演出などに特徴がある、とされている。
当時フランスでは、モダンな映画の延長線上に位置する詩的リアリズムの潮流が主流であったのに対し、ヌーヴェルヴァーグは一時期それなりに注目を浴びたようだが、これらの手法は、その後、欧米や日本でも採られており、時代が下るにしたがって、いつかはみなそうなったはずだから、特別にどうということもない。この程度の<変化>は、戦後の日米の映画史にも見られることである。
これらを「新しい波」と強調するのは、映画を左派思想に利用しようとする一群の大学教授や映画評論家連中である。
映画は映画として、そのまま観て評価すべきであって、その背景事情や「時代<に>与えた影響」といった観点で評価することには反対である。無論、映画を伝統主義に利用しようとする考えにも反対である。
映画は、芸術として独立する。
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