監督:マイケル・ゴードン、製作:ロス・ハンター、原作・脚本:アイヴァン・ゴッフ、ベン・ロバーツ、撮影:ラッセル・メティ、編集:ミルトン・キャルース、音楽:フランク・スキナー、主演:ラナ・ターナー、アンソニー・クイン、1960年、112分、アメリカ映画、配給:ユニバーサル・ピクチャーズ、原題: Portrait in Black
撮影のラッセル・メティは、冒頭の長回しで有名な『黒い罠』(1958年)、キューブリックの『スパルタカス』(1960年)、マリリン・モンローの遺作となった『荒馬と女』(1961年)などで撮影監督を務めた。ロイド・ノーランは『大地震』(1974年)で、終盤、医師として出演している。
大きな港町で海運業を経営しているマシュー・S・キャボット(ロイド・ノーラン)は、体調が悪く、寝たきりになっているが、暴君のような経営者ぶりは変わらなかった。毎朝、主治医・デヴィッド・リベラ(アンソニー・クイン)に来訪してもらい、注射を一本打ってもらっている。階下には、後妻シーラ(ラナ・ターナー)が、デヴィッドの来訪を心待ちにしていた。さりげないようすを見せる二人ではあったが、実はデヴィッドとシーラは恋仲であった。同社の顧問弁護士で契約業務に携わるハワード・メイソン(リチャード・ベイスハート)は、二人の仲を察しており、やはりシーラとの結婚を望んでいた。シーラには、先妻の子キャシー(サンドラ・ディー)と実の子でまだ子供のピーター・キャボット(デニス・コーラー)がいた。他に同家には、コブ(レイ・ウォルストン)と、タニ(アンナ・メイ・ウォン)という中国系の家政婦がいた。
マシューは体調が悪いものの、まだ死ぬほどではなかった。このことが、デヴィッドとシーラの恋路に邪魔となっていた。やがてその死を待ちきれなくなった二人は、ある恐ろしい計画を実行する。デヴィッドは死に、ようやく一緒になれると思っていた矢先、シーラの元に、不吉な手紙が届く。・・・・・・
いわば、古き良き時代のアメリカ映画で、サスペンスものではあるが、脚本、カメラワーク、俳優の演技力などいずれもプロの手腕を見せつけられる。一度目の殺人は、画面には映らず、直前のデヴッドとシーラのようすからうかがえるようにしている。
冒頭から、徐々に徐々に人間関係が解説されていく展開とそのテンポがよい。デヴィッドの登場シーンからしてすでに、シーラとデヴィッドは恋仲なのではないか、と想像されたが、果たしてそうであった。
脚本上では、デヴィッドの外国行きやキャボット社内の契約実務、労働者たちの抵抗など、細やかな素材を絡め、単なる不倫映画に終わらせず、豪華な室内や、適切な場面の転換を挿入し、飽きることない進行を保っている。周辺の各登場人物にまで、脚本上・映像上の役割がきちんと割り当てられ、無駄のない展開となっている。
注目すべきはカメラであろう。特に室内でのシーラとデヴィッドのツーショットの場合に多く見られるが、照明の当て方に細やかな工夫がなされている。例えば、手前にシーラがいるとき、奥にいるデヴィッドは影となっており、こちらに寄ってきて台詞を吐くときに姿が映る。シーラの顔半分を陰にしているシーンもあった。
「黒い肖像」とは、原題を活かした邦題として適切だが、内容上は、<黒くなった肖像画>である。これは、タイトルバックで、俳優が出てくると、それがネガのように反転した白黒になる、というところに象徴されている。デヴィッドは医師であるが、それが、愛を実現するために、殺人に手を染めてしまうことを喩えている。
ラストでは、デヴィッドは転落死してしまい、いわゆる勧善懲悪が貫かれたアメリカ映画のパターンどおりの結末となる。
音楽にも注目しておきたい。タイトルバックから華麗な音楽が流され、OSTはシーンごとに作曲されている。劇場のオペラのように、そのシーンにおける人物の感情の動きなどに合わせ、後からつけられたものだ。
アンソニー・クインは、『道』(1954年)、『ノートルダムのせむし男』(1956年)などで有名な名優であるが、身長185cmでもあり、ネクタイにスーツ姿の彼を見るとどこか違和感があり、また完全犯罪を計画・実行する殺人者という役柄も意外で、こうした意味でも興味深い映画であった。
0コメント