映画 『乱れる』

監督:成瀬巳喜男、脚本:松山善三、製作:成瀬巳喜男、藤本真澄、撮影:安本淳、編集:大井英史、音楽 斎藤一郎、主演:高峰秀子、加山雄三、1964年(昭和39年)、98分、配給:東宝


商店街の酒屋「森田屋」は、他の商店同様、安売りで集客するスーパーマーケットの進出にヤキモキしていた。店を実質切り盛りしてきたのは、戦死した長男の嫁・森田礼子(高峰秀子)であり、現在は、姑(三益愛子)と次男・幸司(加山雄三)が同居していた。ところが、幸司は家に居つかず、外で狼藉をはたらいたり麻雀をして家を空けたりするなど、身持ちの悪い生活を続けていた。ふしだらそうな女(浜美枝)が訪ねてきたこともある。

嫁に出た長女・久子(草笛光子)は、店を幸司にやらせるべきで、いつまでも未亡人の礼子をこき使っているべきではない、と考え、礼子に見合いの話を持ち込む。礼子は即答で断った。夫には半年しか連れ添うことができなかったが、戦後店をバラックから立て直し、18年も店に貢献してきたのは礼子であった。だが、礼子はそのことを苦にしてもおらず、夫の遺影とともに、この家の一員であり続けたいだけであった。

久子とその夫(北村和夫)は、今後のことを考え、店をスーパーにするべきだとして、お膳立てして幸司に話をするが、幸司はその条件として、最大の貢献者である礼子を重役に据えるべきだと主張する。礼子はいずれ幸司が店を継ぐのが筋だと考える点では、その話を歓迎するが、自らの身の置き場について憂慮し、重大な決意をする。・・・・・・


細やかに書かれた脚本により、人々の日常や思惑が丁寧に描かれ、伝わってくる。店先や店の奥の住まいが中心であるが、屋外での撮影を含め、フレームの高さ、人物の位置・遠近、ツーショットからひとりの描写に変える意味、など、映画製作のプロたちにより以心伝心で作られた作品であることがわかる。


映画の中ほどで、幸司が実は長年、礼子を慕ってきたことが判明し、観る側に伝えられる。年齢差や兄の嫁でありながら、幸司は礼子を好きになっており、後半は、画面上は店先や配達シーンなど変わらないものの、二人の感情の行き交いがテーマとなる。店をスーパーに変える件についても。幸司が礼子の肩をもつのは、そうした心理がはたらいているからであった。


久子や次女・孝子(白川由美)は、礼子がまだ若いので、このまま家の犠牲になるのは気の毒だから、再婚して新たな人生を歩んでほしいと言うが、それは一方、いつまでも礼子がこの家にいることで、スーパーに変える話が進まぬ可能性を考えてのことだった。礼子は賢くも、すでに自らそうした自覚をもっており、幸司にも打ち明け、この家を出ることに決心する。


衝撃のラストに向け、乗り継ぐ列車のシーンは<快適>だ。遠ざかる列車は、故郷に帰る礼子の心情そのものだし、意外にも後を追って同じ列車に乗り込んだ幸司は、列車が変わるたびに、礼子の座席に近くなり、最後の奥羽本線車内では、礼子の前に座ることができる。ほとんど会話らしい会話のないこれらシーンを入れたことで、ラストへ向け、ストーリーが締まっていく。


大石田で降り、銀山温泉に泊まるからには、何かあるかと思いきや、それでも礼子は幸司を拒絶する。ラストシーンの何とも言えぬ礼子のアップで、突如映画は終わる。

なぜ温泉のある駅で、礼子は突如下車したくなったのか、その理由はさらりと語られるだけだ。


「乱れる」というタイトルをもちながら、内容は<乱れぬ>といったところだ。濡れ場やいやらしいシーンは一切ない。猥らに乱れる、のではなく、ラストの礼子の髪や服装、そして表情が<乱れた>のである。その後を想像すると、その乱れは礼子の性格からして、頑なな意志を持ってこれからも生きていくであろう決意の前に、突如置かれた<乱れ>を、象徴しているかのようだ。


庶民の生活に密着したこうした映画では、当時の商店街、酒屋の店先、その台所、街並みなど、懐かしい光景を存分に見ることができる。カメラも清潔感と品があり、映画は映像芸術だということを改めて認識させてくれる。

高峰秀子の表情の演技に加え、一度登場する中北千枝子の演技にも注目しておきたい。


日常性の地平

映画レビューを中心に、 身近な事柄から哲学的なテーマにいたるまで、 日常の視点で書いています。