映画 『グッドナイト・マミー』

監督・脚本:ヴェロニカ・フランツ、セヴェリン・フィアラ、撮影:マルティン・ゲシュラハト、編集:ミヒャエル・パルム、主演:スザンネ・ヴェスト、エリアス・シュワルツ、ルーカス・シュワルツ、オーストリア映画、ドイツ語、2014年、99分、原題:Ich seh, ich seh、英題:Goodnight Mommy


Ich seh, ich seh. は、英語なら I see, I see. だろう。「ボク、わかった」と「ボク、見えている」をかけた感じになっている。邦題は、英題の翻訳であろうが、これも、「お休みなさい」は、「永久にお休みなさい」というニュアンスにかけているようだ。本作品で、母親は、殺されてしまうからだ。


森や畑に囲まれた郊外の一軒家が舞台。湖のほとりにあるモダンな作りの豪華な二階建ての家の内部で、瓜二つの双子の男子エリアス(エリアス・シュワルツ)・ルーカス(ルーカス・シュワルツ)と、彼らの母親(スザンネ・ヴェスト)が闘いを繰り広げる物語。


ある日、二人が近くで遊んでいると、クラクションの音がして、母親が帰宅したことがわかる。母親のへやをノックすると、へやのブラインドをすべて下ろし、立っていたのは、目と口以外、頭部を包帯でぐるぐる巻きにしている母親だった。鼻にもガーゼが被せてあった。

動物を家に入れるな、など急にしつけが厳しくなったように思え、二人は、包帯をしている女が、本当は母親ではないのではないか、という疑念を抱くようになる。・・・・・・


ホラー映画に分類されるが、母親の包帯の下の素顔がテーマではなく、そう思っていると肩透かしを食らう。なかなか真相を話そうとしない包帯の女に対し、双子は母親に、あなたは本当の母親か、と執拗に迫る。中盤以降は、双子が母親をベッドに拘束し、残酷な仕打ちを続けるので、その意味でホラーになるのだ。

これら仕打ちは拷問にも近く、もし目の前にいる女性が本当の母親なら、子として到底できそうにないことを繰り返す。ということはつまり、双子は、この包帯女を母親と見做していない、ということだ。赤十字社の職員が寄付を募って訪れるが、二階奥で拘束され、口にガムテープを貼られているので、母親は大きな声が出せない。


誰からの助けもなく、双子を改心させることもできず、最後は双子が放った火のなかで、母親は死ぬ。その後、双子がどうなったかはわからず、燃え上がる火の粉を映し、映画は終わる。


無邪気な双子の男子が、最初は母親に責められていたのだが、中盤から立場が逆転し、いろいろおぞましいことをするというストーリーだ。


決定的な欠点が三つある。一つは、想像はできるのだが、母親の包帯の理由が明確に語られていない、という点だ。

映画には、多かれ少なかれ突っ込みどころというのはあるものだが、それは語られるべきところが語られ足りない穴のことをさしている。本作品では、足りないどころか、ストーリー開始の前提となる点が、スッポリ抜けている。映像は穏やかできれいなだけに、前提のないまま進む話には退屈を禁じ得ない。つまり、母親が顔面に包帯を巻くような手術を受けた原因は何か、が全く語られていないのだ。彼女が帰ってきて初めてその姿を見たときの双子の表情にも、驚きが全くなく、初めからこの親子は生ける屍のようである。母親かどうか怪しいと双子が思うのはそれからだいぶ後なので、当初は母親として見れば、やはり子供なりに多少驚いたり痛々しく思ったりするのが普通であろう。或いはまた、本作のようなことがすでにあり、そのため手術してきたということか。ならば子供は驚かないだろう。


ラスト近く、自由を奪われ床に転がされた母親の口から、唐突に、ルーカスが死んだのは事故であってあなた(エリアス)のせいじゃない、と絶叫するが、ルーカスが本当に死んでいたのなら、そこまで画面に移ってきた二人のうち、ルーカスはゾンビ、或いは、エリアスの想像、ということになる。前半で、ルーカスにはジュースを上げない、ルーカスの文の食事は作らない、エリアスに「ルーカスとは話すな』と言わせたりしているところから、ルーカスは何がしかの原因ですでに死亡しているのであろうが、このあたりも、脚本と映像が適合せず、中途半端だ。タイトルの出る直前、とうもろこし畑などで遊んでいた二人だが、湖のシーンではエリアスが、湖面に向かって「ルーカス!」と呼び、ルーカスの姿はなく、水面が揺れる。ルーカスの死亡は暗示はされている。

それでも、ルーカスは最後まで、エリアスといっしょに画面内にある。死亡しているのであれば、ルーカスの死因は何か、エリアスが事故死させたのか、ルーカスの水死事故をエリアスは自己の責任と感じ過ぎてしまったのか、ルーカスの死亡が母親やエリアスに当えた影響、母親の顔面手術との関わりにも、背景事情として触れておくべきだ。


二つ目として、この包帯女は、果たして、母親なのか、そうでないのか、という点もはっきりしない。冒頭近く、母親が誰かと話している内容を盗み聞き、そのあたりからこの包帯女は母親ではないかも知れないという疑念を双子はもつのであるが、思わせぶりな会話などを散らしていたなら、それらを終盤までに回収・解決していかなければ、後味悪いものとなる。各シーンや台詞から、母親である可能性は高いが、ならばどうして最後に、エリアスによって殺されねばならなかったのか。


そして、これがこの作品を最もエンタメ性なき内容にしてしまっているのだが、第三に、双子の残忍性が、ストーリー上、宙に浮いてしまっている、という点だ。

双子は、ベッドに両脚と両腕を括り付け、母親の自由を奪い、虫メガネを顔近くにかざし、窓から入る日光で母親の頬を焦がしたり、声を出せないようにと、上下の唇を接着剤でくっつけたりするが、これらの残忍性が生じざるを得なかった原因が明確にされていないので、双子のとる残忍な仕打ちが、そこだけ切り離されてしまい、原因と残忍性とのバランスがとれていないのだ。これは、上記の包帯の理由や、本当に母親であったかどうかを判然とさせない脚本にも関わっている。


以上のことから、本作品は、よくあるように、解釈は観る側に委ねている、とする見解も出てこようが、少なくとも<愛情物語>でないことだけは確かなようだ。


日常性の地平

映画レビューを中心に、 身近な事柄から哲学的なテーマにいたるまで、 日常の視点で書いています。