監督:バーベット・シュローダー、脚本:ドン・ルース、原作:ジョン・ラッツ『同居人求む』、撮影:ルチアーノ・トヴォリ、編集:リー・パーシー、音楽:ハワード・ショア、主演:ブリジット・フォンダ、ジェニファー・ジェイソン・リー、1992年、108分、配給:コロンビア映画、原題:Single White Female
婚約前提で恋人のサム(スティーヴン・ウェバー)とアパートで同棲していたアリー(アリソン・ジョーンズ、ブリジット・フォンダ)は、ある日、サムの浮気性が原因で喧嘩し、サムに出ていってもらう。アリーは、一人分の家賃を少なくしようとルームメイト募集の広告を新聞に載せる。やがて、地味に見えるおとなしそうな女性ヘディ(ヘドラ・カールソン、ジェニファー・ジェイソン・リー)が現われ、いっしょに暮らすことに決める。二人は徐々に親しくなり、互いに、アリー、ヘディと呼び合うようになる。
当初、順調だった二人の暮らしは、アリーがサムと縒りを戻したことから、ぎくしゃくし始め、ヘディは次第に異様な行動をとるようになる。・・・・・・
ヘディの異様な行動と、それに対するアリーのリアクションを、次々に<紹介>するような脚本で、そのため、映画の尺として平均的な上映時間であるのに、長く感じられてしまう。
同居人を置くのに、ほとんど身の上も調べず、初め靴だけが映るように、ノックもせず勝手に入ってきたヘディと、寂しさも手伝ってか、アリーはすぐに同居を始めるなど、この手の映画には、突っ込みどころはいくらでもある。だが、それは別にいいのだ。突っ込みどころ満載のストーリーだからといって、進む方向さえ間違っていなければいい。
だが、全体に何とももったいないのは、挿話1+挿話2+挿話3+・・・と数珠繋ぎに流れているだけで、それだけに、次第に観ているほうも、今度は何だよ?という呆れ半分の鑑賞しかできなくなる点だ。ヘディがどういった行動に出るかは予測不能なのだから、却ってヘディの過去や人となりを、回想などで観る側に示しておけばよかっただろう。そうすれば、仮に並列つなりのストーリーでも、観る側はアリーより優越感をもって見ていられるので、そうつまらなく感じることもなかっただろう。本作品の上では、ヘディに同情する余地もなく、ヘディはただの異常性格者としか見えない。
原作を映画化するという作業の失敗なのか、脚本家自体に構成力がないのか。
タイトルバックにすでに、双子の幼女が化粧し合うシーンがあり、途中でその双子の一方はヘディだということがわかるが、ヘディの過去シーンをタイムリーに入れておけばよかった。そうすることで、暴力を振るうヘディと孤独なヘディとの関連が、しっかりと観る側にも伝わってきただろう。
同様なことはアリーにも言える。仕事場や友人も映るが、ヘディの異常性に気付いてもそのような女性をまだ庇い続けるほどの人格であるのかどうか、観たかぎりでは伝わってこない。
女性の女性に対する異様な行動や嫉妬心、いたずらなどのヴァリエーションを描きたかったのであろうが、いまひとつ消化不良となる映画であった。
アパートの部屋や建物、レトロなエレベーターなど、物理的背景やセットは凝っているが、ストーリーに関連づけられることなく浮いてしまっている。
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