監督・脚本:ミヒャエル・R・ロスカム、製作:バート・ヴァン・ランゲンドンク、撮影:ニコラス・カラカトサニス、編集:アラン・デソヴァージュ、音楽:ラフ・コイネン、主演:マティアス・スーナールツ、イェロン・ペルセヴァル、2011年、124分、ベルギー映画、オランダ語(一部、フランス語)、配給:アース・スター エンターテイメント、原題:Rundskop(牛の頭)
ジャッキー(マティアス・スーナールツ)は、ベルギー・リンブルグ州で、親とともに牛や豚の飼育をしている。ある日、ジャッキーに、きな臭い商談が持ち込まれた。商談の相手として現われたのは、子供のときからの知り合いディエーデリク(イェロン・ペルセヴァル)だった。特別な成長ホルモン剤を牛に注射すると、生育がよく、よい肉がとれるということで、ディエーデリクは他の仲間とその話を進めているようだった。しかし、ジャッキーは、ホルモンマフィアが陰にいるようだから関わりをもつべきではないとして、その商談に乗ることに反対した。
そんなある日、ホルモン剤の不正使用を捜査していた刑事が、射殺される事件が起きる。・・・・・・
現実の話に、20年以上前、ジャッキーやディエーデリクの子供時代の話エピソードが、ところどころに挿入される。地元ヤクザの息子である不良少年ブルーノは、草むらでポルノ雑誌を仲間に配り、自らそれを見て自慰行為をしようとしたところをジャッキーとディエーデリクに見られ、腹いせに二人を追い、逃げ遅れたジャッキーを捕え、暴力を振るい、挙句の果てに、ジャッキーの睾丸を石で潰してしまったのだ。逃げおおせたディエーデリクはジャッキーの下に戻ってきたが、凄惨な現場を見るだけで、立ち去ってしまっていた。ジャッキーは不能になってしまった。
この件により、ジャッキーは、今でも男性ホルモン剤を冷蔵庫に大量に貯蔵し、一度に大量に摂取しないようにという医師の言葉を無視し、常習的に服用していた。仲間から女遊びを誘われても、本当のことは言い出せず、疲れたから帰る、などと言って立ち去るのだった。
本作品は、テーマらしきものが一つに収斂しない。マフィアに対抗する男の話なのか、睾丸を失った男の悲哀の話なのか、どちらにも焦点が定まっていないからだ。どちらかをメインにし、どちらかをサブにするという主従関係か、両者に因果関係をもたせるか、のどちらでもない脚本で、ただひたする挿話が並列つなぎにされていくので、なかなか感情移入しにくい。邦画タイトルは苦肉の策だろう。すべてを覆うようなタイトルしか付けられなかっただろうからだ。
監督が脚本を兼ねた作品は、ほとんど失敗に終わるという私の主張する原則は、本作品にも当てはまる。
冒頭に、冷蔵庫の中の大量の小さな薬の瓶が映される。ラストは、子供時代のジャッキーの顔を仰角で映して終わる。険しい顔つきで未来を見つめる子供のジャッキー、・・・まさかこんなみじめな最後を迎えるとは、子供のジャッキーに想像できなかっただろう。或いは、その程度の人生の最後を迎えるのだろうか、と想像していたのだろうか。これらファーストシーンとラストシーンを見る限り、ジャッキーの<不能>がテーマではあるようだ。時折、からだを動かし、男の本能を見せるが、このほうに焦点を絞るなら、それはそれでよい作品になったのではなかろうか。
画面は全体に暗い。暗がりのシーンや、暗いへやでのシーンが多い。また、前半では、大きなシーンの転換で、そのつど、ベルギーの州の名前が出てくる。要は、ここからは、前のシーンとは離れた場所での出来事です、ということなのだが、距離感は別の手段で描写・説明されてもよかった。
深刻な映画は嫌いではないが、絶えず深刻過ぎて、おまけに話の焦点がぼやけており、エンタメ性(=牽引力)がない。その結果、退屈な映画となってしまった。
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