映画 『情炎』

監督・脚色:吉田喜重、原作:立原正秋『白い罌粟』、製作:久保圭之介、茨常則、撮影:金宇満司(かなう・みつじ)、編集:太田和夫、美術:梅田千代夫、照明:海野義雄、音楽:池野成(いけの・せい)、録音:加藤一郎、主演:岡田茉莉子、1967年、98分、白黒、松竹。


昭和41年度上半期・直木賞受賞の立原正秋『白い罌粟(けし)』を原作とする。


和装の女が一人、鎌倉の小道を歩いていく。

古畑織子(岡田茉莉子)は久しぶりに、ある寺での歌会に行き、そこで、石の彫刻家、能登光晴(木村功)と会う、能登は、織子の母・繁子(南美江)の愛人であった。母は未亡人であったが、すでに交通事故で死亡している。生前、母は、自分のことを、ふしだらな女と言って憚らなかった。母の愛人であるということで能登を憎んでいた織子であったが、会ってみると、母を思い出す程度の気持ちにしかならなかった。

一方、織子と夫の隆志(菅野忠彦)には子もなく、夫婦の間柄は破綻していた。夫には若い愛人(太地喜和子)がいたが、織子と離婚するつもりは毛頭なかった。

夫の妹・悠子(しめぎしがこ)は、屈託ない性格で、男友達とよく遊んでいた。

ある晩、悠子たちに誘われて、織子は海岸まで車に同乗して来た。男たちが砂浜で遊んでいるさなか、悠子がどこかに行ってしまったので、そのあとを密かに追うと、古びた薄汚い洋館に行き着いた。織子は、その奥の部屋で、悠子が、労務者風の男(高橋悦史)と情事に耽っている姿を目撃する。・・・・・・


夫の愛もなく、飼い殺しのようにされている妻が、亡き母の情人であった男と、結果的には結ばれていく話である。能登は母より年下であるが、織子よりは年上だ。


ふしだらな母を批判していた織子は、悠子が労務者に犯される光景を目の当たりにし、自らも情欲に目覚める。いや、夫と褥(しとね)を共にしようとしても、途中で拒否してしまう織子は、能登から、悠子と交わったあの労務者が母の最後の男だったと知り、ある晩、自ら労務者の元に行き、身を預けてしまう。

浜辺のホテルに能登を訪ね、このことを話すと、能登は、そんな話は聞きたくない、と怒ったが、夫とは別れたほうがよい、とアドバイスもする。織子の動きを監視し、同じホテルに投宿していた隆志は、二人のいるへやに突然押し入り、自分のへやに来て、決着をつけよう、と言う。

織子が、能登とはからだの関係もなく、肉体関係をもった唯一の男は、あの労務者だけだった、と事実を述べると、隆志はようやく離婚を決意する。


夫に放置され、ふしだらな母をもった有閑夫人が、それでも必死に、愛の真実、愛の在処(ありか)を探し求めようとする話で、能登がよい男であったのが、織子にとっては不幸中の幸いであった。

能登は、舞鶴の石材置き場で、自分の作った大きな彫刻を作業員がトラックに積もうとしたとき、クレーンの事故でその石の彫刻が能登の上に落下し、男として不能になるかも知れないからだになってしまったが、それでも織子は、能登と生きることを決断するのである。そこまで、織子は何度か能登に会っているが、肉体関係をもったことは一度もない。母のことや、自分の唯一の男との関係から、織子は純粋な愛を貫こうと決心するのである。


文芸作品の映画化は、常に危険を伴うが、ゆったりとしたストーリー展開と、それに見合う抑制された丁寧なカメラワークで、映画としても質の高い作品となっている。

カメラは、大部分で固定だが、織子を撮るときなど、しばしばその周囲をぐるりと何度も回って撮っている。岡田茉莉子の夫である吉田喜重監督としても、角度・陰影に富んださまざまな表情を収めている。

フレーム内の人物の位置もたいへんよい。織子が労務者と情事に走るシーンは、カメラをへやの外に置き、ドアの窓からところどころ映る二人の姿をとらえている。その窓も、フレームのなかでは、右側にある。光と影のコントラストを巧みに生かしている。撮影の金宇満司は、元々、撮影技師であった。


鎌倉が舞台であり、街路、藪、海、寺など和風である。岡田茉莉子は基本的には和装が合うが、洋装で登場するシーンもある。岡田茉莉子のさまざまな表情を、美しくとらえた作品である。同時に、カメラの基礎を学べる優れた作品でもある。

ベテラン池野成の音楽には、オープニングから注目したい。


日常性の地平

映画レビューを中心に、 身近な事柄から哲学的なテーマにいたるまで、 日常の視点で書いています。