監督:ジョルジュ・シュルイツァー、原作:ティム・クラッベ、脚本:ティム・クラッベ、ジョルジュ・シュルイツァー、撮影:トニ・クーン、音楽:ヘンニ・ブリエンテン、主演:ジーン・ベルヴォーツ、ベルナール=ピエール・ドナデュー、1988年、106分、オランダ・フランス合作、オランダ語・フランス語、原題:Spoorloos(痕跡なし)
レックス・ホフマン(ジーン・ベルヴォーツ) と恋人のサスキア・ワグター(ヨハンナ・テア・ステーゲ) は、オランダからフランスへと車を走らせている。屋根の上には、二大の自転車を括りつけている。
途中、ドライヴインに寄るが、ひとりで飲み物を買いに行ったサスキアが、なかなか戻ってこない。あたりを探しても全く見つからず、三年が経過する。
その間、サスキア失踪のポスターが街に貼られ、レックスは失踪した人を探すテレビ番組にも出るが、犯人は名乗り出てこない。
レックスには、新たにが付き合い始めた女性がいたが、ちょうその頃、犯人らしき男から手紙が届き始める。
そして、ある日、レックスは、ある男に声をかけられる。その男こそ、サスキアを拉致したレイモン・ルモン(ベルナール=ピエール・ドナデュー) であった。・・・・・・
サイコロジカル・サスペンスとされ、キューブリックも推奨したという映画であるが、30年以上前の作品ということもあり、その評価は大きく分かれている。
ホラーやアクションのように、取っ組み合うような激しいシーンはほとんどなく、初めてレイモンがレックスに近づいたとき、コイツが犯人だと知り、レックスがレイモンを傷めつけるところくらいである。それ以外は、淡々とストーリーが運ぶ。
ストーリー上の辻褄が合わないため、感情移入しにくい。
何者かに恋人を奪われ、新たな彼女ができても、やはりサスキアのことを思い続けるレックスの執念は、三年の月日を経てもなお変わらない、というところで、ようやく犯人レイモンと出会うのだが、半殺しにしてもいいシーンや問い詰めてもいいシーンでも、ある程度で終わりになってしまう。
物語を続けるためにはやむを得ないのだろうが、それも、レックスが、レイモン一流の魔力にかかってしまったから、とでも言いたいのだろうか。
犯人レイモンは、いわゆるレイプ魔や誘拐犯らしい風貌ではなく、学校で化学を教え、二人の娘に囲まれた四人家族で、外見は紳士である。外見は紳士であるにもかかわらず、家族のいないところでは豹変するわけだが、よくあるように、豹変して変態になるわけでもない。
子供の頃から、自分の生き方を自問自答し、常に、「どこまでが自分に可能か」ということを念頭に生きている。その中には、<タイプの女性を拉致するというテーマ>もあり、自分の車い誘い入れて、ホルマリンをかがせて意識を失わせるまでにどれくらい時間がかかるかなど、一人になって、十分に<リハーサル>するのである。
このあたりからして、紳士づらした変態に違いないが、実際にサスキアをどうしたのかについては、レイモン自身からも映画の中でも語られない。レイプされたかどうかはわからないが、殺されただろうことも暗示される程度である。これは、ラストで、レックス自身が、睡眠薬を飲まされた上、目覚めたら、地面深く埋められた棺桶のなかで目が覚め、どうしようもなくなっている、ということから想像される。レックスはおそらく、サスキアと同じ運命をたどったのである。
ラストで、余裕綽々のレイモンが映り、カメラがパンして、車の後部に置かれた新聞の一面ップとなる。そこには、恋人を探していた男性も行方不明に、と書かれている。
自らの「可能性」を試すため<拉致>という行動において、完璧を証明したい男と、その男の用意周到な計画に、心理まで弄ばれる男の勝負は、前者が勝利し、その完璧さが証明され、映画は終わる。
あちらこちらに、ストーリーの前哨戦となるようなエピソードが、セリフやシーンとして、伏線の匂いを放つかのように挿入されている。これらも、その後の展開が淡々と単線的に、人物同士の会話で進んでいくだけなので、どの程度の効果をもったかは疑わしい。
後味が悪いのは映画の個性として問題ないが、そのプロセスにどれくらい観る側が乗っていけるかによって、評価が分かれる映画であろう。
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