映画 『偽りの人生』

監督・脚本:アナ・ピーターバーグ、撮影:ルシオ・ボネッリ、編集:イレーヌ・ブレクア、音楽:ルシオ・ゴドイ、フェデリコ・フシド、主演:ヴィゴ・モーテンセン、ソフィア・ガラ・カスティリオーネ、2012年、117分、アルゼンチン映画(スペイン語)、原題:todos tenemos un plan(我々にはみな計画がある)


南米の都市部といなかの川沿い地域が舞台。

しっとりした風景と静かで控えめな音楽でできた、言わばおとな向けの映画だ。

タイトルとパッケージに誘われて観た。


いわゆる一般受けする映画ではないが、狙いそのものはよかったと思う。

のんびりと流れる濁った川があり、住民はボートで移動する。川の両脇に、洪水時のことを考えてか、木を組んだ二階部分を住居とした家が、ところどころに並んでいる。カメラのとらえた自然の姿は美しい。

冒頭からしばしば養蜂の作業が映されるのもうれしい。防護服を着て二人は作業する。なかなかお目にかかれないシーンもあり興味がそそられる。

ペドロ(ヴィゴ・モーテンセン)がアグスティン(ヴィゴ・モーテンセン、一人二役)の家に着いたとき、土産がわりにと、自分の作った蜂蜜のビンを差し出す。なぜかとてもうまそうに見える。


そうしたのどかな風景のなか、ペドロの周りには悪いヤツらしかいない。ペドロは積極的なほうではないが、近隣からは悪の一味と思われている。

そのペドロは肺癌を病んでいるにもかかわらず、ひっきりなしにタバコを吸い、酒を飲む。そして余命わずかとなった今、アグスティンを訪ねるのである。

映像、カメラ、雰囲気、少ないセリフ・・・しっとりとした映画が出来上がったが、何か足りない。というより、どこかリアリティに欠ける。

映画といえども、リアリティがないと入り込めない。

原因はやはり脚本だろう。


アグスティンは現在の日常に飽きており倦怠のさなかにいる。その状況が伝わってこない。

さらに、ちょうどよかったとばかり、瓜二つの病身の兄を殺して、その兄に成りかわって生きて行こうとする動機が伝わらない。

これほど重大な決心が、いとも簡単にできてしまうのが不思議だ、と観る側に思わせてしまうのだ。

故郷だからという理由もあるだろうが、それなりの愛着なりが描かれていないので、やはり唐突な感は否めない。


もちろん、こうしたことを長々と頻繁に入るモノローグや、会話で済ませるのは簡単だったろう。しかし、言葉にだけ頼った映画は映画ではないと酷評される。私もそう言うに決まっている。

といって、例えば、こういう批判は映画だから括弧に入れてもいいとは思う。ロサ (ソフィア・ガラ・カスティリオーネ)はペドロとは懇ろであり、一瞬疑うシーンもあるが、アグスティンをペドロと思い込んでいる、いくら瓜二つでも村人の誰も見抜けないのか、アグスティンほどの男と21歳の娘が恋愛になるのは不釣り合い、ペドロの交友が悪い連中と知って、なぜ逃げ帰らなかったか、など。


最後にアグスティンは仲間ともトラブルで瀕死の状態となり、ロサとともにボートで上流に向かう。

永遠に愛してくれるか、と問うアグスティンに、永遠に愛する、とロサは答える。

ロサと見つめ合うなか、アグスティンは死ぬ。亡骸をわきに、ロサはボートを走らせる。


アグスティンは、献身的な妻を置き去りにし、ペドロの遺体をバスタブに置き去りにし、いまの倦怠を打破すべく、偶然転がり込んできた運に賭けた、…つまり、わがままな男とも言えるが、その男は若い娘と恋愛関係に陥る。兄の女と寝て平気なのである。そして、永遠の愛を誓われて死んでいく。

なぜ、自分の安定した生活をうっちゃって、故郷といえども悪い兄のかわりに生きることにしたのだろうか。


終わりよければすべてよし、なのか。ムードはあるが、消化不良になる。

そんな映画である。



日常性の地平

映画レビューを中心に、 身近な事柄から哲学的なテーマにいたるまで、 日常の視点で書いています。