監督:森本晃司(オープニング)、森田修平(九十九)、大友克洋(火要鎮)、安藤裕章(GAMBO)、カトキハジメ(武器よさらば)、 原作:大友克洋(武器よさらば)、 脚本:森田修平(九十九)、大友克洋(火要鎮)、石井克人・山本健介(GAMBO)、カトキハジメ(武器よさらば)、音楽:Minilogue(オープニング)、北里玲二(九十九)、久保田麻琴(火要鎮)、七瀬光(GAMBO)、石川智之(武器よさらば)、製作会社:ショート・ピース製作委員会、配給:松竹、2013年、68分。
オープニングに続く「九十九(つくも)」、「火要鎮(火のようじん)」、「GAMBO」、「武器よさらば」の4編からなるオムニバス・アニメ。
全体のタイトルは、大友克洋の初期作品集『ショート・ピース』からとったと言われている。オープニングには、『ショート・ピース』の表紙の女性の顔(「犯す」の扉ページ)もさりげなく出ている。これは short piece だが、本映画では short peace となっている。言葉遊びだろう。
「武器よさらば」は大友克洋の短編を元にしており、監督・脚本は、メカニックデザイナー・カトキハジメが担当している。
あらすじなど省略するので、こちらを参照してください。
昨年7月20日封切で、宮崎駿『風立ちぬ』と同じ日であった。
オムニバス映画は、どこか統一感をもたせるだろうし、観る側もそういうものとして観るのだろう。
オムニバス映画として傑作だったのは、「最後の一葉」などオー・ヘンリーの五つの短編をひとつにした『人生模様』(1952年、117分)であった。これは、同じ作家の短編を集めた作品であった。短編である原作を、短編として映画化した。
本作品は、前三つが、古い日本の姿を見せるのに対し、「武器よさらば」だけは、都心における近未来の戦闘を中心にした内容である。
いずれも、作品のラストに、富士山が出てくるあたり、舞台は日本であることを強調しながら、他方、外国人を意識したつくりとも言える。
『人生模様』のように、原作という共通点をもたないが、大友がかかわったという点で、その精緻な作画、アイデア、演出、素早い動きなどに、大友の他の作品に通じるものを見てとれる。
そしておそらく、興行収入などをまず優先するようなポピュラーな内容より、現代の日本においてもまだ、職人肌で殴り込みをかけようとする各分野のアニメに対する純情と愛着、執着を、そのまま曝け出している作品なのだ。
一話一話に、ストーリーとしての完結性がない、と言われる。しかし、アニメの世界で、ましてや短編で、そうきちんと始まりと結論を描くことが必要なのだろうか。
一話一話の話の運びがわからないというならともかく、話の内容は誰でもわかる。
あるレビューによると、夏休みの封切であり、大きな映画館のロビーには親と来ていた子供たちが騒ぎまくっていたが、この映画が上映されるに及んで、満席の客席に、ほとんどさきほどの子供たちの騒ぐ姿はなく、周囲はみな静かに鑑賞していたという。
このあたりのことも、この作品の存在意味を示す現象だろう。
特にマニアックな視聴者を予想しているとも思えないが、セリフは極力排除されているため、観客に想像力を委ねているような点があるのは事実だ。これは、結論を観客に委ねている、というのとは異なる。明確に結末を描写しないのは、短編であるという特性を活かした、観客への褒美なのであり、作り手側からすれば、観る者たちへの願いなのだろう。
オフィシャルサイトの動画冒頭に、「アニメ」を失った大人たちへ、という文句が出てくる。
この映画は、まさに、そんな大人たちへのご褒美であり、観る側へのプレゼントになる。
職人たちの作り出す美しい映像と、精緻な作画と、ダイナミックなアクションシーンなどから、観る者は想像力を掻き立てられ、忘れていたものを思い出し、気付かなかったことに気付かされるのである。
エンディングに、「夢で逢いましょう」(「夢であいましょう」作詞・永六輔、作曲・中村八大、歌・坂本スミ子)が流れる。
『AKIRA』でも、「東京シューシャインボーイ」を使っていたくらいだから、これは大友のアイデアだろう。
この曲の採用も、監督たちの以上のような願いを込めてのものなのだろう。
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