映画 『サスペクト・ゼロ』

監督:E・エリアス・マーヒッジ、脚本:ザック・ペン、ビリー・レイ、原案:ザック・ペン、撮影:マイケル・チャップマン、編集:ジョン・ギルロイ、ロバート・K・ランバート、音楽 クリント・マンセル、主演:アーロン・エッカート、ベン・キングズレー、2004年、99分、原題:Suspect Zero


サスペクトとは容疑者で、サスペクト・ゼロとは、特定の犯行パターンがなく捜査線上に上がってこない犯罪者で、プロファイリングも不可能な事件のことをいう。


FBI捜査官のトム・マッケルウェイ(アーロン・エッカート)は、ニューメキシコ州の田舎町アルバカーキに着任する。トムは連続児童殺人犯の不当逮捕が原因による一種の左遷であった。トムの着任早々、管轄内で連続殺人事件が発生する。事件の男性の被害者の遺体には、まぶたが切られ眼球が飛び出し、身体には、円とそこを横切るスラッシュのマークが刻まれるように切られている、という共通点があった。かつて恋仲であったフラン・クーロック(キャリー=アン・モス)が、偶然にも同僚として赴任してきて、一緒に捜査に当たることになる。捜査を続けるうち、ついにベンジャミン・オライアン(ベン・キングズレー)という男に辿りつく。・・・・・・


実は、このオライアンという男は、元FBI捜査官で、「透視捜査」という捜査方法を学んでおり、連続児童誘拐殺人犯やトムがどこにいて何をしているのかを透視し、その現場や犯人を把握していた。やがて、オライアンは、児童殺人犯というわけではなく、サスペクト・ゼロとも称される連続児童殺人犯を捕えきれないトムに業を煮やし、元ベテランの捜査官としてその意気込みを応援する側に立つ人間であることがわかる。連続殺人の被害者男性は二人とも、児童誘拐殺人事件の犯人であった。殺された犯人は、それぞれ複数の児童を殺害しており、オライアンは元刑事として、警察の手を掻い潜る犯人らを処刑していたのである。


なかなか興味深い題材を元としているのに、エンタメ性という点ではもう一歩の作品に終わってしまった。原因は二つあり、一つは、ストーリー展開において、展開していく過程におけるエピソードのそれぞれが、いずれも同じ比重で描かれるため牽引力を欠いていることが挙げられ、もう一つは、ラストの仕上げの部分が、それまでのストーリーのカラーと全く異なってしまった点であろう。


オライアンはトムより前、当初から画面に登場し、透視技術のあれこれが、映像で描写される。紙に鉛筆で数字や人影を描くなど、美術陣の苦労が偲ばれる。これらのカットの編集もかなりうまい。しかし、カメラで捕えた小道具や編集が優れている一方、それぞれ節目となるエピソードが同じ比重で描かれるため、並列つなぎの展開になってしまっているので、次のシーンやエピソードにつなげていくだけの牽引力を失ってしまっている。


ラストでは、真犯人である冷凍貨物のトレーラーを岩山に追跡し、トムは犯人と格闘となり殺す。そこにオライアンが追いつくのだが、そこからが問題だ。これだけのストーリー展開となれば、確かにエンディングをどうもっていくかは難しいだろう。妙にハッピーエンドにしてしまっては、作品全体の雰囲気を台無しにしてしまう。むしろ、犯人を殺したところで、カメラをぐんぐん引いて、そのままさっぱり終わってもよかったのではないか。

本作品では、オライアンは、透視のできる自分に疲れ、これからもいろいろなことを思い出してしまうだろうからと、トムの持つ拳銃の銃口を自らの額に当て、殺してくれと頼む。これをトムは頑なに拒否すると、オライアンはトムを殺そうとするが、駆けつけていたフランに遠くから撃たれ、トムにありがとうと言って死ぬ。準主役がラストに死亡するという決着はありうるが、この映画にふさわしかっただろうか。或いは、殺される手段において、一発の弾丸だけというのがふさわしかっただろうか。

アメリカ映画には、かねてよりよくあることだが、人を殺したヤツは最後に殺されるという勧善懲悪的処理の考えが底辺にある。いくら正義のためとはいえ、悪い事をした幼児殺人鬼であろうと、これを殺した者もやはり殺人犯なのであり、同じ結末を迎えさせるのが妥当である、という考えだ。これにより、どうしてもオライアンは死なせなければならなかったのであろう。


カメラアークやフレーム取りもよく、映画撮影の基本に則って撮られた映画であるので、その制作姿勢には賛同できるのだが、以上の二点において、映画としては惜しい作品となってしまった。

日常性の地平

映画レビューを中心に、 身近な事柄から哲学的なテーマにいたるまで、 日常の視点で書いています。