映画 『ミッドナイトクロス』

監督・脚本:ブライアン・デ・パルマ、製作:ジョージ・リットー、製作総指揮:フレッド・カルーソ、撮影:ヴィルモス・スィグモンド、編集:ポール・ハーシュ、音楽:ピノ・ドナッジオ、主演:ジョン・トラボルタ、ナンシー・アレン、1981年、108分、配給:フィルムウェイズ・ピクチャーズ、原題:Blow Out(=吹き消す、吹き飛ばす、爆破する)


小さな映画制作会社で、音響効果を担当するジャック・テリー(ジョン・トラボルタ)は、サスペンス映画の製作中、浴室で悲鳴を上げる音響を撮ろうとするが、その女性の悲鳴が下手でなかなかシーンにも合わないため、上司に文句を言われる。人間の叫び声以外にも、木の葉の擦れ合う音や雷の音など自然の音を集めることもジャックの仕事であった。

ある日、夜更けに、マイクと録音機を持ち、屋外の音を集めていると、一台の車が走ってきて、川に突入するのを目撃してしまう。急いで川に飛び込み、一人の女性サリー(ナンシー・アレン)を何とか救出するが、入院したサリーの病院に駆けつけ、見舞いのあとへやを出ると、病院の入口は大勢の人でごった返していた。実は、サリーと一緒に別の男が乗っており、その男は死亡したのであるが、男は、次期大統領選挙に出馬している有力な候補者だったのだ。

ジャックは、車が川に飛び込む寸前、銃声がし、その後車が川に転落したのをしっかり耳で聞いており、それは録音テープに残っていた。だが、病院でジャックに話をしてきた人物は、これは事故であったことにし、誰にも何も言うな、と口止めしてきた。・・・・・・


ブライアン・デ・パルマの作品としては、『キャリー』(1976年)、『殺しのドレス』(1980年)に次ぐものであり、この後、『スカーフェイス』(1983年)、『ボディ・ダブル』(1984年)、『アンタッチャブル』(1987年)、『カリートの道』(1993年)といった著名な作品群が連なる。それぞれに、映画の何たるかを知っている監督であることがわかるのだが、本作品はこれら一連の流れからして、ここだけ凹んでしまっている気がする。


ストーリー柄、小道具は満載で、カメラワークもいろいろに工夫されており、ラスト近くは花火の上がる祝典の現場をロケ地として選び、アイデアもよく、視聴者の目を楽しませてはくれる。しかし、例えば、同じように脚本を兼務した前年の『殺しのドレス』に比べても、ストーリー展開が平凡で、並列つなぎに終始している点が残念だ。私自身は、監督が脚本を兼ねる場合、優れた作品になるか、つまらない作品になるかのどちらかに傾くという自論をもっているが、本作品はまさにこの後者の典型となってしまった憾みがある。


ジャックが主役であり、サリーが準主役である位置づけであるなら、娼婦であるサリーのサイドからのストーリーを混ぜ、ラストに向けて両者の話を収斂させていくこともできたであろう。それが、常にジャックを軸とし、あとのキャラクターは枝葉になってしまっている。陰謀の実行犯であるバーク(ジョン・リスゴー)は事件直後からしばしば顔を出し、ラスト近くには準主役クラスの役回りを担っているが、この男の背景が一切語られていないことも消化不良の元になっている。女性に対する連続殺人犯ということまでは暗示されるが、政治的陰謀との関わりという点は明らかにされずじまいだ。


終盤で、祝典の宴のさなか、リポーターを装ったバークが、サリーをおびき出し、録音テープなどを手に入れるが、それらを川に投げ捨ててしまう。サリーはそこで初めて、バークがリポーターでないことを知るが、そこでバークはサリーを殺害しようとする。その現場にぎりぎり間に合ったジャックによりバークは殺されるが、サリーも死んでしまうのである。このあたりの一連の流れも平凡で、メリハリがない。その上、サリーの死に顔をまじまじと見つめるジャックのシーンだけは異様に長く撮られている。悲しみの極みなのか、無念さの極みなのか、ジャックとサリーの関係を描き切っていないだけに、この長いショットも意味不明だ。

このときのサリーの断末魔の絶叫が、冒頭の浴室での女性の悲鳴に使われるというオチはご愛嬌だ。


ストーリーあってこそ、その時々のシーンの映像が活きてくる。全体にストーリー展開に進展性や牽引力がなく、奇を衒った映像を連続して流すというだけの映画となっており、せっかくのピノ・ドナッジオの官能的な旋律も、陳腐なストーリーと共倒れになってしまった。


演技派ジョン・リスゴーは本作品において、珍しく悪役を演じている。この2年後、『トワイライトゾーン/超次元の体験』(1983年)第4話で、高所恐怖症の機内の乗客を演じることになる。


日常性の地平

映画レビューを中心に、 身近な事柄から哲学的なテーマにいたるまで、 日常の視点で書いています。