映画 『蝿男の逆襲』

監督・脚本:エドワーズ・バーンズ、原作:ジョルジュ・ランジュラン『蝿』、撮影・ブライドン・ベイカー、編集:リチャード・メイヤー、音楽:ポール・トーテル、バート・シェフター、主演:ヴィンセント・プライス、パトリシア・オーウェンズ、1959年、80分、原題:Return of the Fly、配給:20世紀フォックス


前作『ハエ男の恐怖』(The Fly、1958年)の続編となっている。前作は現在では『蠅男の恐怖』と漢字表記を使用しているが、テレビでの初放映時には『ハエ男の恐怖』という表記であった。本続編も、テレビ放映時は『恐怖のハエ人間』というタイトル表記であった。いずれも劇場未公開である。「逆襲」というと仕返しのドラマのようであるが、内容的には勧善懲悪のドラマ仕立てとなっている。


前作で死亡したアンドレの兄フランソワ・ドランブル(ヴィンセント・プライス)が、20数年後に、アンドレの息子フィリップ・ドランブル(ブレット・ハルセイ)と、アンドレの墓参りに来るところから始まる。フィリップは、父のやりかけた仕事を引き継ぎたいと主張し、フランソワはこれに反対するが、フィリップの熱意にほだされて、仕事に協力することにする。フィリップには、アラン(デヴィッド・フランカム)という同僚がいた。仕事とは、物質転送の実験である。


前作で、アンドレは、いろいろな物をポッドからポッドに移す実験をおこない、徐々に成功し、最後にその実験の集大成として人間を転送しようと試み、自らポッドに入り、転送しようとするが、たまたまそのポッド内に一匹のハエが入っており、転送先のポッドには、頭と片腕がハエとなった怪物が転送されてしまうのだ。同時に、頭と片腕が人間であるアンドレ自身は、蜘蛛の巣に引っ掛かり、その餌食になるところでエンディングとなる。

これは小学生のころテレビで見て、よく覚えている。怖いようでいて滑稽でもあるような不思議な感覚をもったものだ。その後もレンタルで見たことがあるが、なかなかDVDは発売されていない。この続編はブックオフで見つけたものだ。


監督も前作と異なり、前作に比べでも、ハエ男自体が生成されうるというホラー的要素はやや後退し、フィリップを裏切り、この実験結果を盗み、悪友と巨富を得ようとたくらむアランと、フィリップやフランソワとのやりとりが、ストーリー展開の中心となっている。

前作では、アランの妻ヘレンを話の中心に据えた展開で、妻と、危険な実験を行なう夫とのドラマであった。妻が夫の頭部と腕を圧縮機で潰して殺害する、という事件発生から、ドラマは始まったのであった。

本作品では、物質転送の話は視聴者にわかっていることもあって、転送実験の周辺をめぐる人間同士のドラマを中心にせざるを得なかったのであろう。それだけに、ホラー的要素は後退してしまっているのである。


ハエ男になったフィリップの撮り方は、『エレファントマン』(1980年)のジョン・メリックに似て、すでにそこにある醜い物体としてのみ描かれている。当時は、頭が巨大なハエになっているだけでも、おぞましく薄気味悪い印象をもたせることができたのだろうから、その後の映像上の進歩と比較してもしかたない。ただ、撮り方にもう少しくふうがほしいところだ。

人間ドラマのほうに比重を置くのであれば、アランと葬儀屋との関係などをもう少し描いてもよかっただろう。そんな悪だくみにこの転送実験が利用されたらどうなるのか、といった方面からの犯罪的視点をもっと入れてもよかった。これらがないので、ストーリーがさらっとし過ぎて、単にハエ男の不気味な姿を見て楽しむだけの映画になってしまっている。


それでも、アランを追って来た刑事がアランと格闘になり、刑事は失神させられてポッドに入れられる。前夜、モルモットを転送して「物質化したまま」であったので、もう一方のポッドに転送された失神したままの刑事はモルモットと一体化し、手足だけはモルモットになっており、扉から出てきたモルモットは、手足が小さな人間のものになっている。このシーンは思わず笑ってしまう。前作同様、大きさの異なる物体が転送して融合しても、それぞれの大きさに見合う手足や頭になっているのはなぜか、という本質的疑問には触れられない。


ラストは前作と異なり、フィリップは元の人間の形となり、フィアンセと抱き合うというハッピーエンドとなっている。時間的には80分の尺であり、エンタメ性も備えており、気軽に楽しむことのできる映画ではあろう。


日常性の地平

映画レビューを中心に、 身近な事柄から哲学的なテーマにいたるまで、 日常の視点で書いています。