映画 『共喰い』

監督:青山真治、原作:田中慎弥、脚本:荒井晴彦、撮影:今井孝博、編集:田巻源太、音楽:山田勳生、青山真治、主演:菅田将暉、田中裕子、光石研、2013年、102分。


田中慎弥の平成24年芥川賞受賞作品の映画化で、数々の賞を得ている。

青山真治は、『Helpless』『EUREKA』『サッド ヴァケイション』で知られる。

ドラマは、昭和63年初夏から年明けて平成を迎えたあたりの時間で進む。

山口県下関市に近い河口の町が舞台。


17歳の高校生・篠垣遠馬(とおま、菅田将暉)は、父・円(まどか、光石研)と、愛人・琴子(ことこ、篠原友希子)と暮らしている。

遠馬の産みの母、仁子(じんこ、田中裕子)は、そこから少し離れた川沿いで、ひとりで鮮魚店を切り盛りしている。仁子は戦争の最中、左手を負傷して失い、魚を捌くとき抑えられるように特殊な形の義手を付けている。

仁子は円と行為するときに、興奮した円が仁子の顔面を殴るので、別居することになった。


遠馬は、ある夜、円と琴子の行為をのぞき見していると、やはり円は琴子にも暴力をふるっていた。

遠馬には、千種(ちぐさ、木下美咲)という彼女がおり、近くの神社の神輿蔵で密会し行為をしていた。

あるとき、父の血を継いだ自分も、行為の頂点になったとき、千種を殴るのではないかと恐れを抱く。・・・・・・


ところどころナレーションが入るが、主人公・遠馬(とおま)の内心の言葉であるのに、父役の光石研の声でなされている。


この監督自身のカメラは、いつも無理がない。基本に忠実であり、突飛な使い方もなく、冒頭からすーっと入っていける。日常の風景を、安心して観せてくれる監督だ。フレームの切り取り、パンやクローズアップも無理がなく、こういう自然なカメラの動きは好感をもてる。

冒頭とラストに、近所の川が早回しで映される。ラストのほうは、川に海の水が入ってきて、少しずつ満潮になるのがわかる。


この下関郊外の田舎町ののどかな風景や基本的で安定したカメラワークで映し出すものは、決して穏やかなテーマではない。

性行為の際、相手に暴力をはたらく50過ぎの父親と、その息子の性観念の遍歴がテーマで、遠馬の日常は、とてつもなく非日常である。


円は琴子がいないときは、さらに別の女と交合している。遠馬は行為のとき、やはり千種を殴ってしまい、千種と会えないとき、父親のこの女と交わる。

あとでこれを聞いても、円は怒らない。むしろ遠馬を励ますようなセリフを吐く。しかし、琴子が耐えかねて家を出たことを知ると、円は今度は神社にいる千種と交わってしまう。


これを遠馬から聞いた仁子は、いよいよ円を殺す決意をし、先の尖った特殊な左手の義手で、円をひと突きにする。


原作を知らないが、おそらく、その雰囲気は伝わっているのだろう。

ある評論家が「『日本映画』の伝統を単なる反復ではないかたちで転生させることに成功している」と述べている。うまいことを言ったものだ。


邦画の転生とまで言えるかどうかは別として、邦画のよさといったものを、日本の映画事情のなかで、俵ギリギリのところで歯を食いしばってがんばっているという感は強い。

それはカメラの自然な使い回しにも見られ、こうした意味で、日本の映画の伝統に必死で沿っていこうとする意図が感じられる。


性行為のシーンは何か所かあるが、心得た撮り方で終わらせている。明るい光の当たるシーンもあまりない。室内や暗がりのシーンが多い。

それだけに、時折挿入される街や山や川の風景が効いている。


また、おそらく故意の遊び心と思われるが、メタファーをうまく使ってシーンをつないでいるところがある。


小栗康平の『泥の河』(1981年)を彷彿とさせるものがあり、大衆受けする作品ではないだろうが、今の日本の映画では、残念ながら、逆に少ない部類に入る貴重な佳作だ。


菅田将暉を初めて知った映画でもある。演技のできる若手だ。


日常性の地平

映画レビューを中心に、 身近な事柄から哲学的なテーマにいたるまで、 日常の視点で書いています。