監督:市川崑、原作:横溝正史、脚本:長田紀生、日高真也、市川崑、撮影:長谷川清、編集:長田千鶴子、照明:岡本健一、美術:阿久根厳、録音:大橋鉄矢、音楽:大野雄二、主演:石坂浩二、島田陽子、1976年(昭和51年)、146分、東宝。
2006年版は同監督によるこれのリメイク版。
昭和22年、信州のある町の名家・犬神家では、その当主・佐兵衛が最期のときを迎えんとしていた。
その遺言を聞くために、三人の娘(松子・高峰三枝子、竹子・三条美紀、梅子・草笛光子)とその子ら、つまり佐兵衛の孫(佐武(すけたけ)・佐智(すけとも))らが集まっていたが、長女・松子の子・佐清(すけきよ)だけが不在のため、遺言書は開封されず、七か月後に佐清が復員してきたので、初めて遺言状が公開されることになる。
その場には、一族とは血縁のないはずの珠世(たまよ、島田陽子)もいた。
一族の弁護士・古館(小沢栄太郎)が読み上げた遺言状は、佐兵衛のすこぶる独断と偏愛に満ちた内容であり、その内容をめぐって、殺人事件が起こる。
古館に協力して事件を解明していく探偵は金田一耕助(石坂浩二)で、リメイク版でも石坂が演じている。
多くの人が知っている作品だと思う。湖面から突き出た死体の両脚でも有名だ。
子供のころから、国語辞典は角川書店のものを使っていた。発行者は角川源義とあった。その息子の春樹が、映画製作に乗り出した第一号作品である。
この映画では横溝本人と同じく、春樹自身も数カ所で、刑事の一人として登場し、セリフもある。
当時観たとき、どこかで見たストーリーだと思った。昭和45年に日本テレビの夜8時から「蒼いけものたち」という番組をやっており、それとあらすじが同じだったのだ。あとで、原作が同じと知って、やはりと思った。
酒井和歌子が珠世に当たり、三人の姉妹は、雪子・沢村貞子、月子・千石規子、花子・市川寿美礼と、雪月花であった。
実はこのとき、千石規子という女優を初めて認識した。気色悪いババアだなくらいに思っていただけだったが、後に、かつて黒澤映画に重要視されていることを知り、女優というのは、そのキャリアを見ないと語れない、と反省したものだ。それからは、女優に限らず俳優というものは、そのキャリアから今を見るようにしている。
この「蒼いけものたち」のほうを先に知っており、しかも当時の有名俳優が出ているので、そちらの印象が強く、この映画のほうは、はっきり言って、当時そんなにおもしろいとは思わなかった。
やがて、キャリアで見るという観点で監督を見ていくと、市川崑というのはまさに映画職人であることを知り、大好きな『鍵』(1959年)などを経て、再度この映画を観ると、原作のおもしろさはあるが、さらに映像的にさまざまな演出がほどこされていることがわかったのだ。
複雑怪奇なストーリーは過去に遡って初めて明らかになるが、そこはどうしてもセリフが長くなる。そのへんを、うまくカットと回想で切り返して、飽きのこないように続けている。脚本の巧みと言えよう。
原作の「よき(斧)・こと(琴)・きく(菊)」という犬神家の家宝に事寄せて事件が起きるが、血なまぐささを最小限にして、それぞれの描写も日本的で美しく描き出している。
監督が大物か駆け出しかは、さりげないシーンに差が出る。
こういう監督は、まったく何気ないシーンを、そのまま簡単には撮らない。
一例を挙げれば、復員してきた佐清が、母親に伴われて初めて、犬神の屋敷に入るシーン。大きな屋敷のなかの薄暗く長く折れ曲がった廊下を、母と佐清が歩いてくるところだ。
全く何気ないシーンなのだが、天井に近いほどの高さから、二人をやや見下ろすように、カメラは手持ちで後ずさりしながら映している。カメラを床に置いて撮ることもできる。ふつうの高さはもちろんありうる。固定でとらえることもできる、二人を後ろからとらえたカットを正面からのものとつなぎ合わせてもいい。
しかし、それらを一切せず、自宅であるにもかかわらず、母はあたりをうががうようにそそくさと歩き、佐清は自宅に戻ったうれしさなど見せず、まるで母の飼うスパイのように、母につき従い、忍び歩く。
カメラと二人の距離は、常に一定で、長回しのまま映るのは、こちらに向かって歩いてくる、画面内ではずっと同じ大きさの母と子なのだ。
つまり、これが、この壮大なるサスペンスの始まるきっかけであることを、しっかり暗示させてくれているのだ。
さらに、市川崑らしく、サスペンスでありながら、随所にユーモラスな演出やセリフが入るのも見逃せない。
映画は、二度見たら、二度目の発見がある。三度見たら、三度目の発見がある。だから、飽きない。ただし、プロが集まって作った映画なら、ではあるけどね。
0コメント