監督:ジャン・ベッケル、脚本:セバスチアン・ジャプリゾ、原作:ジョルジュ・モンフォレ、製作:クリスチャン・フェシュネール、撮影:ジャン=マリー・ドルージュ、編集:ジャック・ウィッタ、音楽:ピエール・バシュレ、1999年、115分、フランス映画、原題:Les Enfants du marais(=沼地の子供たち)、配給:シネマパリジャン
監督は、『現金に手を出すな』(1954年)、『穴』(1960年)などで知られるジャック・ベッケルの息子ジャン・ベッケル。他に、『タヒチの男』(1966年)、『殺意の夏』(1983年)などで知られる。
ヒトラーがもうすぐ力をもつようになるだろう、といったセリフも聞かれ、時代は1930年代前半であることがわかる。舞台はフランスの草深い田舎にある沼地の周辺だ。
ガリス(ジャック・ガンブラン)は35歳で、隣に住む友人のリトン(ジャック・ヴィルレ)一家もそれぞれ、沼地の前のあばら家のような建物に住んでおり、自給自足といえば聞こえはいいが、誰にも邪魔されないその日暮らしの生活をしている。それだけに貧乏ではあるが、自然のなかで生きることを楽しんでもいる。二人でスズランの花をとってブーケにしたり、カエルやエスカルゴをとったりして、町の市で売っている。また、夜になると二人は、町に出て家々の前で歌を歌い、投げ銭をもらったりもしている。リトンには妻パメラと一人娘で5歳のクリクリ(マルレーヌ・バフィエ)がいて、隣同志ということもあり、クリクリはガリスに懐いていた。リトンがぐうたらなこともあり、パメラは半ば愛想を尽かしていた。
リトンはワイン好きであり、一時期パメラが家出したことで、昼間からバーで深酒し、客として入ってきた現役ボクサーのジョー(エリック・カントナ)と喧嘩をしてしまう。ガリスが来てリトンは連れ出されたが、ジョーは逮捕され留置場送りになり、6カ月服役することになる。
ガリスは、リトンと歌を歌いに行った大邸宅が留守で、鍵もかかっていなかったので、二人で中に入ると、女中であるマリー(イザベル・カレ)が帰ってきたのでワケを話す。これを機にガリスはマリーに淡い恋をする。・・・・・・
ストーリーが進むに連れ、アメデ(アンドレ・デュソリエ)や、ぺぺ(ミシェル・セロー)というぐあいに、友人や知り合いも増えてくる。アメデは、沼地の二人のところへ来るときもきちんとした格好だ。ペペは工場の経営者であるが、すでに引退し、今では、娘の婿が後を継いでいる。ペペは娘や婿を嫌っており、ガリスたちと知り合い、自由な時間を送るようになる。
始まってすぐに、ガリスがクリクリと遊んでくれるときに、今のガリスの声がナレーションで入り、ラストで、高齢になった現在のクリクリ(シュザンヌ・フロン)が登場する。つまり本作品は、現在のクリクリからみた回想になっている。まず現在があり、現在と過去を交互に見せるのではなく、ところどころに現在のクリクリの声を入れ、ラストですべてクリクリの思い出であることがわかるという仕組みだ。したがって、あのころはよかった、それに比べ現在は……という批判めいた内容ではない。もっぱらクリクリの思い出話であり、映画の主題は、沼地近くという自然のなかに日々を生きる人々の人間模様であり人間讃歌である。
本作品は、さまざまな日常のエピソードが綴られることで進行していく。
ガリスがここに住み始めたいきさつが回想でエピソード風に触れられ、住み始めてすでに12年が経っている。リトンは何かにつけガリスを頼ってくるので、一度はここから離れようとしたこともあったが、友人でもあり今日まで来たのである。
マリーを懐かしく思い、ガリスが邸宅にマリーを訪ねると、門には鍵がかかっており、近所の主婦の話では、女中として働いていた一家とともにニースに行き、そちらで結婚したとのことで、マリーとの淡い恋は立ち消えになる。
あるとき、ペペが、日頃世話になり、カエル採りなど楽しいひと時を味わったお礼として、大金の小切手をガリスたちに渡す。リトンはありがたくもらおうというが、翌日ガリスは、現金に換えてペペの家に帰しに行く。
ジョーは懲役を喰らい、ボクサーの資格も剥奪された腹いせに、出所直後からリトンを殺そうと狙う。沼地まで来て、釣りをしているリトンに銃口を向けるが、後ろから来たクリクリに、沼の中へ突き落されてしまう。ジョーは泳げず、駆けつけたガリスに助けられる。
現在のクリクリによれば、ここに登場していたほとんどの人物は他界し、ガリスは沼地を出て行き、その後の消息はわからない、という。
豊かな自然の中で、そこに住むことを選んで生きていくからには、貧乏な暮らしにならざるを得なくなるが、それでも、自らの選択や暮らしに誇りをもち、しかも、相手が金持ちであろうとも、同じ大地の上に立ってそれぞれが交流していく。そうした生活を、都会の生活や都会人に対するアンチテーゼとしてではなく、本質において満喫し楽しむことができているのだ。
主人公はガリスだが、マリーとの恋の終わりにしても、ペペとのやりとりにしても、うじうじと執着しウエットにならない描写にしている。
この邦題のつけかたは正解で、まさにクリクリのいた当時の沼の近くには、いろいろな想い出がいっぱい詰まっているということだ。こんなすてきな想い出がたくさんあったクリクリは、だからこそ現在も、幸福な笑顔で、この頃を思い出せるのであろう。
あえて言えば、カメラワークに面白みはない。人物も、全身か上半身などに決まっており、テーブルに付いた人々を撮るときも、いろいろな向きや角度から撮ってから、その短いカットをつなげるというようなことまではしていない。アウトドアでの撮影が主なので、細かいカメラワークはあえて使わなかったのだろう。この沼地付近の人々の暮らし、というものがテーマであるからには、たとえガリスが登場するシーンであっても、こまごまとしたカットの切り貼りを避けたのかも知れない。あまり細かくすると、人々の暮らしを見渡す視野が削られてしまうからだ。
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