映画 『地獄の門』

監督:ルチオ・フルチ、製作:ジョヴァンニ・マッシーニ 、ロベルト・E・ワルナー、脚本:ルチオ・フルチ、ダルダーノ・サケッティ、撮影:セルジオ・サルヴァーティ、特殊メイク:ジーノ・デ・ロッシ、音楽:ファビオ・フリッツィ、主演:クリストファー・ジョージ、1980年、93分、イタリア映画、原題:Paura nella città dei morti viventi(=生きている死者の街への恐怖、英語版(THE GATES OF HELL))


ダンウィッチという地図にもないような半ば架空の町が舞台。

神父のトーマス(ファブリツィオ・ジョヴィーネ)が墓地で首を吊って自殺した。その直後、近くの地面からはゾンビが起き上がっていた。自殺は、キリスト教の戒律に反する行為で、神父がそれを実行したということは神への冒瀆に当たる。一方、ニューヨークでは、霊媒の研究者マダム・テレーザの元、霊媒師メアリー(カトリオーナ・マッコール)はテーブルに手を置き、トーマスの死を透視していた。メアリーは「見えた」光景にショックを受け、そのまま絶命した。事件を聞きつけた新聞記者ピーター(クリストファー・ジョージ)は、事件現場に入ることを断られたため、墓地に行く。墓掘り人夫がメアリーの遺体を墓に埋める途中で仕事を切り上げるが、ピーターは棺の中から声が聞こえ、掘り起こすとメアリーは生きていたのである。

ピーターが、メアリーやテレーザと話を聞いたところ、トーマスの自殺により、死者が甦るおそれがあるという。トーマスの背徳行為により、町では不可解な出来事が起き始め、いわゆる「地獄の門」が開かれつつあった。キリスト教で全ての死者の魂のために祈りを捧げる日である死者の日、即ち万霊節を迎える午前零時までにその門を閉じなければ、悪霊でもある死者が各地で甦り、収拾がつかなくなる。メアリーとピーターは、真相を突きとめ、トーマスの墓地を探すべく、ようやくにしてダンウィッチへ到着する。・・・・・・


この二人に、サンドラ(ジャネット・アグレン)とその恋人で医師のジェリー(カルロ・デ・メイヨ)が、トーマス神父の墓の探索に加わる。


ミミズや蛆が這いまわる、内臓を吐き出す、電動ドリルで頭蓋骨を貫通する、蛆虫が窓から大量に飛び込んでくる、頭蓋を壊し脳みそを鷲掴みにする、ネズミが飛び掛かる、など、フルチらしい不潔なシーンや残虐なシーンが盛りだくさんだ。そうしたハイライト的シーン以外でも、突然割れるバーのガラス、猫に引っ掻かれた手などが映されるが、強い風や砂煙などの演出も効果的だ。ダッチワイフをなでるボブ(ジョヴァンニ・ロンバルド・ラディーチェ)や、遺体からネックレスを奪う安置所の職員など、背徳を通り越して変態や犯罪も、強い風や砂煙などの背景とともに、演出にひと役買っている。電動ドリルのシーンなど、本筋には関係のない話を入れたのも、演出効果と映像効果を狙ってのことだろう。


エミリーの家などを、外からしばらく横移動のカメラでとらえるシーンがある。死んだエミリーの弟ジョニー少年(ルカ・ヴェナンティーニ)はへやから外の不吉なようすに気が付く。これはゾンビ目線であり、すでにゾンビがそこここにいることを示している。実際、ジョニーはすでに死亡した姉エミリーの顔を見る。後に、サンドラも自宅前で襲われて死ぬ。


映像だけでなく、本作品、というよりフルチの映画には、音楽や音響による効果がなくてはならない存在だ。冒頭、女性の悲鳴が聞こえたあと、ファーストシーンから神父が首を吊るあたりまでの導入の音楽は、先を予見させる曲調であり、蛆が這うなどのシーンでは音響効果が不可欠であったはずだ。音楽の旋律そのものは決してサスペンス調ではなく、むしろ妙に暖かみがあると言ってもいい。


ストーリーとして、ラストには、メアリーたちはトーマスの墓を探し当て、その地下へと降りていく。そこには地上のような空間が広がり、先へ進むとゾンビたちが幾体も立ち現れる。ここで、人間とゾンビとの最後の闘いがなされる。序盤で、死んだと思われたメアリーが埋められ、助かる一連のシークエンスは、このラストの話に弾みをつけるために効果的であった。


最後は、ジェリーがトーマスのゾンビに、十字架の根っこ部分をぶち刺すことで、トーマスや付近のゾンビは炎に包まれて灰となる。かくして、地獄の門は閉ざされることになり、一応のハッピーエンディングとなる。墓から出てきたメアリーとジェリーの姿を見て、ジョニーが駆け寄ってくるシーンで終わるが、駆け寄ってくる途中で、笑顔だったメアリーの悲痛な No! No! という喚き声がかぶさり、ジョニーの笑顔がストップモーションになるとそこにひびが入って終わる。

作品の流れからして、特に意味をもたないが、あっさり終わらせず、思わせぶりに終わらせたかったのであろう。


原タイトルどおり、恐怖に怯えて死んだ婦人もいたが、その<恐怖>なるものをもっと前面に出すべきだった。そうすれば、グロシーンがさらに効果的になっただろう。


日常性の地平

映画レビューを中心に、 身近な事柄から哲学的なテーマにいたるまで、 日常の視点で書いています。