映画 『山の音』

監督:成瀬巳喜男、原作:川端康成、脚本:水木洋子、撮影:玉井正夫、美術:中古智、照明:石井長四郎、編集:大井英史、音楽:斎藤一郎、主演:原節子、上原謙、山村聡、1954年、95分、東宝。


鎌倉が舞台。尾形菊子(原節子)は、夫・修一(上原謙)とその両親、信吾(山村聡)・保子(長岡輝子)と住んでおり、子はない。修一は信吾と同じ会社に勤めており、朝は一緒に出勤するが、帰りは修一が決まって遅くなり、酒に酔っていることが多い。菊子は、ここ数年、修一との間に隙間ができているように感じている。それもそのはずで、修一には愛人がいたのである。そんな尾形の家に、修一の妹・相原房子(中北千枝子)が、子供二人を連れてやって来る。夫や姑といまくいかず、逃げ出してきたのだった。

信吾は修一に、菊子のことについていろいろ説諭するが、修一の愛人宅通いは止まりそうもない。信吾は、事務員の谷崎(杉葉子)が、その愛人と一緒に暮らす女友達・池田(丹阿弥谷津子)を知っているということで、その住まいの前まで行くが、そのときは中に入らなかった。・・・・・・


今まで何度か観ているし、原作も昔読んだことがある。繊細なやりとりを綴った文章を映画化するのは難しく、映像で表現しにくい部分も多々あるが、脚本化し、原作とは別個のものとして製作する以上、映画としてどうかという観点で観ていくべきだろう。

能面(慈童面)を顔に当てるのは、原作では菊子であり、離婚の決意を固めるシーンで象徴的に使われるが、本作品では、谷崎がかぶり、話の前後の脈絡とは無関係に、単に「照る(やや上を向く)・曇る(ややうつむく)」で表情が違うことを示すだけである。原作で、信吾が耳にした、死を予感させるような「山の音」についても、本作品では言及がなく、信吾がしばらく体調が悪かったことが冒頭で語られるくらいである。


全編通じ、客観的に大きな事件が起きるわけではなく、父子の会社の業務内容など一切出てこない。家族四人とそこにかかわる人物の会話があるのみだ。一方で、それだけに、家族四人、特に信吾、菊子の気持ちの行き交いが、他の人物との会話のなかに、くっきりと浮かび上がる構成になっている。修一の両親も菊子自身も、修一に女がいることは察している。谷崎から、修一が菊子のことを、まだ子供なんだ、などと菊子を貶めるような発言を愛人にまで話していると知り、信吾は激しい憤りを覚える。


信吾は菊子の心情を思うあまりに何とか修復しなければ、とするが、修一の不貞は直りそうもない。そこで、直接、愛人の家に足を運ぶことになる。池田の住まいに行き、待っていると絹子(角梨枝子)が帰ってくる。絹子は戦争未亡人であった。互いに正座して落ち着いた態度であるが、そこでなされる信吾と絹子の会話は壮絶だ。絹子は修一とは、もう別れたとのことだった。絹子は身ごもっており、修一には、子は産むなと言われたが、自身の意志で産むことにした、と言う。


導入からしばらくの流れがみごと、というより、すてきだ。ひまわり、さざえ、緒ずれ、といった滑稽気味な日常の会話を順に仕込み、その上でようやく、この家の問題らしき問題が浮かび上がってくるように順序立てている。


カメラはいつものように固定カメラ中心だが、無理に低くせず、日常社会の人間の目の高さで統一されている。横に移動するところもあるが、これも同様で、観る側がさりげなく観ていられるのだ。このさりげないカメラワークが、さりげなさの重要さや価値を思い知らせるのは、さりげないところがあるからである。つまり映像シークエンスのメリハリだ。それは例えば、先ほどの信吾と絹子の向かい合うシーンであり、ラストにつづく枯れた銀杏の並木道とその向こうに広がる公園のシーンだ。


修一との子を堕ろし、いよいよ修一と別れる決心をし、信吾もそれを察して、互いに言葉を選びながらの慎重な会話がなされる。フレーム内にベンチとわきの木をとり入れ、座る信吾に対し、わきに立つ菊子のショットは、まさに一枚の写真であり絵となっている。このシーンの前後の二人の入るフレームは、かなり考えられた構図となっている。ここぞというこうしたシーンがあるために、そうでないところは、会話はきわどいものであっても、カメラだけは流麗にさりげなく動いているのである。椅子に座ったとき、本当に座り心地のよい椅子というのは、座ることに違和感がない椅子であるということだ。


前半の保子の台詞に、「あの子(菊子)はお父さん(信吾)に悪いと思ってヤキモチも焼けやしない」というのがある。嵐が来て電気が消え、点された蝋燭の灯りのなか、信吾に言う台詞だ。菊子は常に、舅である信吾にそのように相対してきたのであり、この家の中での菊子の心情のありかを衝いている言葉だ。


ほぼ同い年の山村聡と上原謙が父と子の役で共演しているところもおもしろい。メイクアップや演技とはそういうものなのだろう。撮影当時30歳だった(金子信雄)が、房子の夫役でワンシーンだけ出てくる。のちの姿からは想像もできない。


途中、菊子がレコードを聴いているシーンがあるが、聴いているピアノ曲は、リストの「ラ・カンパネラ」である。


日常性の地平

映画レビューを中心に、 身近な事柄から哲学的なテーマにいたるまで、 日常の視点で書いています。