映画 『ある船頭の話』

監督・脚本:オダギリジョー、撮影:クリストファー・ドイル、編集:岡崎正弥、オダギリジョー、音楽:ティグラン・ハマシアン、主演:柄本明、村上虹郎、川島鈴遥(かわしま・りりか)、2019年、137分、配給:キノフィルムズ、木下グループ


トイチ(柄本明)は、山奥の川の渡し船を漕ぐ船頭。渡しといっても、大声で叫べば声の届く程度の距離の対岸までを、客から小銭をもらって往復しているだけだ。船頭はトイチしかおらず、岸にも、トイチの古びた舟があるだけだ。

毎日、いろいろな客を送り迎えするが、源三(村上虹郎)や、マタギの仁平(永瀬正敏)など、ほとんどが知った顔であった。

ある日、客を降ろし、ひとりで対岸に帰ろうと漕いでいると、舟が何かにぶつかった。引き上げると、少女(川島鈴遥)であった。ケガをしているようだったので、自分のあばら家に寝かせ、介抱した。源三に頼んでよもぎを持ってきてもらい、それをすりつぶして、ケガをした場所に塗り込んでやるなど面倒をみた。・・・・・・


全編、固定カメラと、やや長めのカットを多用し、安定感がある。トイチのみすぼらしい住まいの中や岩場、岸辺、林の中などでも、徹底して固定で撮られている。一部、水中撮影や幻めいたシーンもあるが、ほとんどが自然現象をそのままカメラに収めている。


あるひとりの、身寄りのない、年老いた孤独な船頭の生きざまを、この船頭にかかわる人々との会話から焙り出していく。大きな事件といったものはないが、あえて言えば、少女の登場であり、仁平の父の死をはさみ、ラスト近くの出来事くらいである。そうした出来事があるにしても、トイチの仕事は淡々と進められていき、それらの出来事に対する反応は、トイチの独白で片付けられていく。ただ、最後の一件で、あばら家に住み続けることが危険と察知したトイチは、家に火を放ち、少女とともに、舟でそこを去るのである。


タイトルどおり、本作品は、ある船頭トイチの話であり、回想などはないにしても、ストーリー上、起承転結があるわけではなく、伏線を張っておいて回収していくという流れもない。それだけに、ストーリーとしての統一感はないので、あたかも、トイチの絵日記を動画にしたような味わいである。そこをどう観るかにより、評価が分かれるであろう。


抒情詩を観るようでもあり、それがいいという人もいようが、私にはあまり、ぐいっとこなかった。映像はたしかに美しく、安心して観ていられるのであるが、淡々と事柄が並べられていく並列展開は、いやが応にも徐々に飽きてくる。やはり、ここでも、監督が脚本を兼ねることの閉塞感が現われてしまい、監督本人は満足したかも知れないが、映像化しただけの意味合いがなくなってしまった。


橋の建設の話、牛を売る商人、芸者の会話、医者との会話、源三と少女のやりとりなど、話をふくらまし、重層的な展開やエンタメ性を盛り込めるチャンスはいくらでもあったと思うのに、残念であった。孤独の孤と狐という字が似ているという話をした女性(草笛光子)を乗せたこともあるが、翌日、対岸に、うろうろするキツネを見るだけで、トイチの思考が、何ら深まっていくわけではない。


そのエンタメ性を盛り込ませるチャンスのひとつに、トイチの見る亡霊の少年の存在がある。この亡霊は、周囲の岩場と似たようなもようの衣装を着けて、数度出てきて、トイチや少女にかかわる微妙な台詞を吐くのである。水中で人魚のように泳ぐ少女のシーンと同じくらい、登場が意外で、言うことも意味深長であり、魅力的なシーンであるのに、いずれも、トイチが聞き捨てるだけに終わってしまっている。


時代性らしきものは、あえて明確にしていないようだが、これは多少明確に示したほうが共感を呼ぶだろう。映画だから虚構ではあるが、あまりにもリアリティに欠けると、映像が秀でていても、雲をつかむような話に終わってしまう。


川島鈴遥という女子は、本作の限りでは、なかなか適役であったと思う。


日常性の地平

映画レビューを中心に、 身近な事柄から哲学的なテーマにいたるまで、 日常の視点で書いています。