映画 『夜明け』

監督・脚本:広瀬奈々子、撮影:高野大樹、編集:菊池智美、照明:山本浩資、録音:小宮元、美術:仲前智治、徐賢先、音楽:Tara Jane O'Neil、主演:柳楽優弥、小林薫、2019年、113分、配給:マジックアワー


木工所を経営する涌井哲郎(小林薫)は、ある朝、釣りに出かけ、川辺で倒れている一人の青年を発見し、保護する。一人暮らしの哲郎の家に敷かれた布団の中で目を覚ました青年は、哲郎がいろいろ尋ねても、自分の名前を「ヨシダシンイチ」と名乗るだけであった。哲郎は、行く当てのないシンイチを、仕事場に連れて行き、少しずつでも仕事を覚えさせるように仕向ける。哲郎は、数年前、妻と一人息子を、交通事故で同時に亡くしていた。いわば、シンイチは、息子の代わりであり、跡継ぎにもできると考えてもいた。休みの日、二人で釣りに出かけ、そこで初めて、シンイチは、生きていても意味がない、などといった自分の思いのたけを、哲郎に曝け出す。

ある日、シンイチは、幹線道路沿いのパチンコ屋の前で、足を止める。その場所は、シンイチにとって、忌まわしい思い出を残していた。・・・・・・


丁寧に書かれた脚本に沿うように、歩くようなテンポでストーリーが展開していく。全編通じ、このスローテンポが続くので、ゆったりじっくり観られるが、それにしても退屈な映画であった。映画とは映像であり、ストーリーを映像でつなげていかなければならない。あたりまえのことだ。言葉を羅列し、映画にしたのに文字で読んだほうがいいのではないか、という作品も多い中で、台詞を少なめにしたのは、不幸中の幸いだ。


監督が脚本をそっくり兼ねると、時折書いてきたように、実に優れた作品か凡作かのどちらかに、はっきり分かれる。本作品は、残念ながら、後者になってしまった。なぜか。


いろいろ要因はあるが、その主な原因は、カメラワークにある。また、それを許した監督の演出にもよる。監督は、これが初監督作品とのことだが、初かどうかは関係ない。この映画には、エンタメ性がない。サスペンスであれ政治ものであれ、ドキュメンタリ-でもない限り、映画にはエンタメ性があってしかるべきだ。そして、映画におけるエンタメとは、ストーリーの牽引力と、各要素におけるメリハリである。本作品には、その両方が欠けている。演技力ある俳優を使っていながら、残念な結果になってしまった。


そういう結果をもたらしたカメラワークの特徴は、まず、手持ち撮影が多すぎる点だ。予算の関係があったかも知れない。映画だからセットはなるべく避けて、哲郎の家の中を含め、ロケが多く、カメラが外に出ているのは評価できるのだが、ここぞというところで固定にしないので、しまりがないのである。二つ目は、哲郎とシンイチの二人だけの会話シーンに多いのだが、ツーショットばかりで、カメラがどちらかいずれかの目線にならないので、そのときそのときの心情が、観る側に伝わりにくい。台詞を言う相手を見るもう一方だけを映し、つなげていく、という手段が必要だ。つまり、モンタージュ技法を使うべきところで使っていない。全体に、カメラが横着なのである。

また、例えば、冒頭、哲郎が車から降りて、シンイチを発見し助けるシーンなど、冒頭だから観る側を引きつけようとする演出なのかも知れないが、もし本当にそう思ってあのように撮ったのなら、それは素人なのではいか。高校生の部活の文化祭上映作品程度の演出である。


内容柄、映像化するには難しい作品であり、そこに挑戦した気概は認めたい。今後、もっと多くの映画を観て、カメラワークなど研究して、実験作品となる本作品をバネに、新たな作品づくりに臨んでもらいたい。


日常性の地平

映画レビューを中心に、 身近な事柄から哲学的なテーマにいたるまで、 日常の視点で書いています。