映画 『男はつらいよ 寅次郎純情詩集』

監督・原作:山田洋次、脚本:山田洋次、朝間義隆、撮影:高羽哲夫、編集:石井巌、音楽:山本直純、主演:渥美清、倍賞千恵子、1976年12月、10分、配給:松竹


何度も観ている作品ではあるが、レビューするのは初めてだ。

シリーズ18作目。マドンナ役は、京マチ子、檀ふみという母子であり異例で、後に恋い慕う柳生綾(京マチ子)が闘病の末逝去するというカタチでの寅次郎の恋の終わりを迎えるという点で、二重に異例な内容となっている。

本作品の二年前、『華麗なる一族』(1974年)で、妻妾同居する気の強い愛人・高須相子を演じた京マチ子が、こちらでは、病弱で子供のように無邪気な世間知らずの薄幸な中年女性を演じている。俳優というのは、まことに千変万化の仕事であり興味深い。


甥の満男の小学校の担任に代わる産休講師・柳生雅子(檀ふみ)が家庭訪問でやってくる。寅次郎(渥美清)は両親と柳生の席に図々しく割り込み余計な話をしたことを全員に咎められ、とらやを去っていく。別所温泉に落ち着いた寅次郎は、かつて甲州で出会った旅の一座の芝居を見物し、夕方宴会を開く。だが、その代金が払えず、無銭飲食ということで警察に留置されたと知り、さくら(倍賞千恵子)が迎えにいくことになる。とらやに戻った寅次郎は、たまたまそこに現れた柳生雅子と挨拶を交わすが、雅子はその母・柳生綾(京マチ子)を連れてきていた。寅次郎は今度は綾にひと目惚れしてしまう。・・・・・・


本作品は、他のシリーズの作品と比べ、特にマドンナが死去するというカタチで寅次郎の恋が終結するという点で異例である。恋愛のラストに死をもって帰結させるというのは、それ自体で観客の同情を引くので、脚本上の狡(ずる)さを指摘されうる。監督はそれをよくよく承知のうえで、死を迎えるプロセスやその後の描き方に、細やかな演出や工夫を凝らしている。

加えて、死をストーリーに取り入れるというのは、まかり間違えば、一挙に哲学的・思索的な展開に陥る可能性があるのだが、これも、死が近付いた綾のようすをカットするなどしてそういう方向に話が流れるのを避けている。人情喜劇と言われる本シリーズであり、死を題材に取り入れるのには却って勇気が要ったはずであるが、脚本にこうした力量があってこそ、死への脱線を免れ、完成度の高い作品になってと言えよう。


台詞にしか出てこないが、綾は、柳生家の再興のため、戦後、戦争成金の男と結婚させられ、病気を理由にすぐに離婚させられている。その後、30年近く寝たり起きたりの生活をし、最近も3年に及ぶ入院生活を終え、退院したばかりである。


綾の死後、ラスト近く、寅次郎が柳生家の庭先を訪れ、雅子と話すシーンは本作品の圧巻である。雅子は寅に、お母様のことを愛してくれてた?と聞く。寅は、何でこの俺が?とんでもない、と答える。これに対し雅子は、息を引き取る寸前、綾が、元気になったら寅さんに会いにいきましょうと言ったら綾が頷いたことから、綾の気持ちを察知し、母は寅さんを愛していた、と寅に告げる。誰にも愛されたことのない生涯だったけど、逝去する前の一か月だけでも寅さんという人に大事にされて母は幸せだった、と言って雅子は泣き崩れる。このシーンは胸を打つ。


また、これより前、綾が病院に行くのを渋っているから寅から勧めてほしいと雅子から電話で聞いたさくらが、とらやに来てその旨寅に伝えると、食事中であるにもかかわらず。寅はすぐに柳生家に向かう。寅の任侠魂の表われであるが、この何気ないシーンも心を打つ。そして、その後に、「人間はなぜ死ぬのだろうか」という綾のセリフが用意されている。これは、旅芸人一座が演じた劇でも語られた徳富蘆花の『不如帰』の一節である。


円熟の域に達した脚本、俳優陣の演技力、誠実なカメラ、効果的な編集により、異例の設定が却って功を奏した作品となっている。


日常性の地平

映画レビューを中心に、 身近な事柄から哲学的なテーマにいたるまで、 日常の視点で書いています。