映画 『ハンガリー連続殺人鬼』

監督:アールパード・ショプシッツ、撮影:ガーボル・サボー、編集:ゾルターン・コヴァーチ、音楽:マールク・モルドバイ、美術:リタ・デヴェニー、アールパード・ショプシッツ、衣装:ジェルジ・サカーチ、主演:ガーボル・ヤースベレーニ、カーロイ・ハイデュク、2016年11月、121分、ハンガリー映画、原題:A Martfüi Rém(マルトフの恐怖、英語版:Strangled)、配給:キングレコード


冒頭、「実話に基づく」と出る。1957年、ハンガリー動乱がソ連によって阻止されるという政治的端境期に、マルトフという小さな田舎町で起きた連続婦女暴行致死事件を元にしている。映画中の時期は、1957年当時と、その7年後と大きく二つに分かたれ、そこに1966年以降のエピソードが加わるという形をとっている。


夜分、靴工場から、仕事を終えた工員たちが大勢出てくる、その中の若い女子工員に、一人の男レーティ(ガーボル・ヤースベレーニ)が近寄る、二人は顔馴染みであったが、二人だけになったとき、レーティは彼女を襲ってしまう。やがて、取調べ、現場検証から裁判までが描かれ、レーティは死刑を宣告される。ここまで7分であり、ここで初めて、「マルトフの恐怖」というタイトルが出る。


実は犯人は別の男ボグナール(カーロイ・ハイデュク)であることが次第にわかってきて、ラストではボグナールが絞首台に立つところまでが映される。靴工場で働くレーティの妹が、再審を強く希望するあたりから、真犯人の捜査という別の局面が前面に出され、担当する刑事や検事の確執にまで話が及んでいく。


タイトルバックでは、途中で何度か出てくる水中のシーンを象徴するように、水中の映像が流される。犯人が死体を川や湖に投げ込むシーンや、ラスト近く、検事たちに追われる真犯人ボグナールが崖から湖に飛び込むと検事も飛び込んで逮捕するなど、水のあるシーンがよく出てくるからだろう。

犯人は言葉巧みに女性を誘い、それに安易に乗る女性の側にも責任はあるのだが、この犯人には、通常の前戯では興奮しないという、劣等感からくる性的異常さがあり、殺害してから犯すというネクロフィリア(屍姦)の傾向や、殺害後、乳房を切り取り、そこに流れる血液を見て興奮し射精するという異常さがある。


こうしたシーンや、遺体を川に放り込むなど残虐なシーンは正確に織り込まれ、冤罪で刑務所にいるレーティと真犯人ボグナール、また捜査当局や検事の動きなどを平行して交互に描くなど、脚本上のくふうはなされているのは認めるものの、わずか数年前製作の映画としては物足りなさが残る。映画は、いかなるジャンルのものであれ、エンタメ性を担保して初めて娯楽作品となるのであり、本作品は製作上の工夫や努力は認められるにしても、実話が元になっているせいもあってか、それに忠実になるあまり、ややドキュメンタリー化してしまった憾みがある。


本作品の弱みは、くふうのある脚本ではあるにしても、途中から、捜査のやり直しという展開に至ると、テーマが冤罪阻止へと移行し、再捜査に熱意を見せる実直な若い検事と、出世を念願する老練な刑事などとの確執が中心となってしまっていることだろう。再審に向けての取調べにおけるレーティとこの頑固な刑事とのやりとりなど、建設的な運びのシーンもあるのだが、一方、サスペンスの味付けの意味ではあるのだが不要なシーンの挿入も多い。


冤罪阻止をテーマにするのであれば、レーティが事細かに「犯行」を自白するあたりや、自白の強要シーンなどが描かれてしかるべきだ。だが、映像には、現場検証で、まことしやかに「犯行」を自白するレーティの姿しかなく、まあそれだからこその逮捕・有罪につながるのであろうが、視聴者にレーティが犯人であることを強調するための材料だけが並べられている。真犯人は性的異常者であるなら、その心理面に突っ込んで描くという手もあるのだが、そうなると勢い心理劇になる可能性があり、製作側は、いろいろな理由により、これは避けたかったと思われる。いろいろな理由とは、心理劇の映像化は困難であり、俳優を含めそれぞれのスタッフの力量が試されるからであり、もう一つには、現代の映画づくりにおいて、さまざまな「撮り方」を要請されるからである。


それでも、本作品が、私のように、その脚本の不手際さやテーマの拡散を批判するレビューアーが出現することを百も承知のうえで、あえて、特撮などを一切使うことなく、(水中シーンもあるが)しっかりと地面にカメラを据え、カメラワークと光のつくる陰影だけによる撮影に終始し、犯行場面ではあえて音楽をカットするなど、本来の映画製作的手法で2時間の映画を作り上げたという点は大いに評価したい。


日常性の地平

映画レビューを中心に、 身近な事柄から哲学的なテーマにいたるまで、 日常の視点で書いています。