監督:イェジー・カヴァレロヴィチ、脚本:イエジー・ルトフスキ、イェジー・カヴァレロヴィチ、撮影・ヤン・ラスコフスキ、音楽:アンジェイ・トゥシャスコフスキ(アーティ・ショウ「ムーン・レイ」を編曲)、1959年、100分、ポーランド映画、配給:新外映、原題:Pociąg(列車、英語圏=The Night Train)
『水の中のナイフ』(1962年)のレオン・ニェムチック、『尼僧ヨアンナ』(1962年)のルツィナ・ウィンニツカ、『灰とダイヤモンド』(1958年)のズビグニェフ・ツィブルスキが主な出演で、『影』(1956年)のイグナツィ・マホフスキも脇役で出ている。一列車内の乗客たちによる群像劇のなかに、中心的な人物が置かれるという構図である。冒頭とタイムリーなシーンに、気だるい女声スキャットが入り、混雑する列車内の人間模様や心理の綾を巧妙に演出している。
何やら『死刑台のエレベーター』(1958年)を彷彿とさせる出だしだが、ストーリーが全く別物なのだから、カメラやシチュエーションへのアプローチ全く異なるのも当然だ。
ポーランドの某駅から長い編成の列車が発車する。行き先はバルト海沿岸の町のようだ。サングラスをかけた男イェジー(レオン・ニェムチック)が、乗車券を失くしたと言いつつ一等車に無理矢理乗り込む。一等車は満席だと言われたものの、空きを待つとして強引に二人一室のコンパートメントに入り込んだ。そこには先客の女マルタ(ルツィナ・ウィンニツカ)がいたが、女車掌によると、そのコンパートメントは男子用であるからすぐ退出してほしいというが、女は言うことを聞かない。男はやむを得ず、女と同室になる。マルタはどうやら男と別れてきたばかりのようだが、その相手スタシェック(ズビグニェフ・ツィブルスキー)は、マルタを追い、普通車のほうに乗り込んできていた。一方、乗客の読む新聞には、妻殺しの男が逃亡しているという記事が載っていた。・・・・・・
冒頭、イェジーはサングラスをかけ、挙動の不審で、いかにも新聞記事に載っている妻殺しの容疑者にも見え、そういう演出もなされる。途中の臨時停車駅からは警官が乗り込んできてイェジーは連行されるが、犯人は別人であった。スタシェックは普通車に乗り込んだので一等車との境には鍵がかけてあり入れず、やむを得ず女車掌にマルタへの手紙を渡す。そこには「会ってくれなければ列車を転覆させる。愛してる。」とあった。マルタはそれを読むなり、千切って窓外へ捨てるが、その際目にゴミが入り、イェジーはそれをとってやる。このあたりから、イェジーとマルタは同室の誼(よしみ)で、タバコを分けるなどして会話をするようになるが、それぞれの置かれた現在の状況は、決して愉快なものではないと言う雰囲気がありありである。列車に乗り込む際、混雑するホーム上で、実はイェジーはスタシェックの荷物に肩をぶつけ、互いに軽い挨拶をしているが、ご愛嬌だ。
二人用の狭いコンパートメントの室内、狭い通路などでの撮影が多く、それが却ってバストショットやアップの多用に頼らざるを得ないとでもいうふうである。刻々と変わる諸状況の変化、というより変転を、役者陣は丁寧な演技、バストショットが多いぶん、特に目の演技でこなしている。
全編はほぼ3分の1ずつに分かれており、最初の停車駅まで、殺人犯が外へ逃亡するが乗客らに捕まるあたりまで、そしてけだるいラストへと続く。列車に乗客が乗るところから最初の停車駅までいろいろな人物の紹介がなされていく。それは台詞や持ち物、視線などさまざまな方法でなされる。主演の3人以外に、スタイルも美しい人妻と、途中までは声しか聞こえないその夫、高齢の司祭とその弟子の神父、夜は眠れないという男などなど、そして節目でシーンを形作る役回りとなっている中年の女車掌、そのお得意客らしい上品な紳士、台詞は全くないが、通路入口に座る若い水兵と恋人など、登場人物は多彩で、グラデーションをもってその存在感を示している。
イェジーが間違えられて車内で警察に捕まり取調べを受けていたが、マルタが、自分に寝台券を譲ってくれた男がいて、たった今その男を見たとしてイェジーの無実を警官に伝える。警官らは車内を探すが、これを察した犯人の男は、急停車装置を作動させ列車を止め、外の草原に逃げ出す。乗客たちはこれを追いかけ取り囲み、捕まえてしまう。そこにはイェジーもスタシェックもいた。あとからマルタも来たが、スタシェックは気が付かない。再びみなが列車に戻るが、犯人を捕らえた場所は十字架の並ぶ墓地であった。
騒動が終わり、夜汽車は朝を迎える。窓外には美しい海岸が広がる。マルタの現在ある状況がイェジーに話されるうち、終点の一つ手前の駅に着き、スタシェックは降り、マルタの乗る列車を見送るばかりだ。終着駅では、イェジーは出迎えの妻と並んで去って行く。美しい人妻は、車内で言い寄ってきた若い男と会う約束をして去って行く。女車掌はひとり残ったマルタに下車を促し、マルタはひとり寂しく海岸を歩いていく。
誰もいなくなったコンパートメントを、カメラが横移動で撮っていく。そこにはつい先ほどまで、男と女のさまざまなドラマがあったのだ。これは冒頭、真上から撮られた混雑する駅の光景と軌を一にする。ほんのわずかな時間であったが、そこに他人同士が犇(ひしめ)き合い、触れるか触れぬかの心的身体的距離の際(きわ)で、互いに相手を見、相手に見られるのである。現に、ここに出てくる乗客は、他人事(ひとごと)であるのに、たかがひと晩同じ列車に居合わせただけなのに、他人のありように興味津々である。レビューするには何度も人名を出さざるを得ないが、本編ではほとんど人の名前が台詞に上らないことでも、夜行列車に乗り合わせた人々が行きずりの関係でしかないことが明らかだ。それでもなお、行きずりの関係でさえもたざるを得ないシチュエーション、或いは、行きずりの関係でさえももちたいシチュエーションというものがあるのが、人間の性(さが)なのだろう。
時折、外の風景が入りながらも、ほとんどのシーンは室内劇の様相を呈している。カメラも多彩で、狭い室内、通路であるからなおのこと、仰角・俯角を織り交ぜて撮影を工夫している。真上からの撮影は、オープニングのほか、犯人を乗客たちが捕まえるシーンで使われている。オープニングはじめ随所で挿入される懶(ものう)い音楽は、主役3人の憂鬱感を漂わせるのに充分だ。シーンごとにいろいろな旋律を用意せず、このメロディだけを使用したことは正解だ。
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