映画 『恐喝(ゆすり)』

監督:アルフレッド・ヒッチコック、原作:チャールズ・ベネット『Blackmail』、製作:ジョン・マクスウェル、撮影:ジャック・コックス、編集:エミール・デ・ルエル、音楽:ジミー・キャンベルとレグ・コネリー、主演:アニー・オンドラ、ジョン・ロングデン、トーキー85分、1929年6月、イギリス映画、配給:Wardour Films、原題:Blackmail


イギリス初の長編トーキー映画となった作品。

アリス(アニー・オンドラ)は、恋人で刑事のフランク(ジョン・ロングデン)とレストランに入るが、ここで若い画家に会いに行くことになっていたアリスは煮え切らず、これから映画に行く行かないでフランクと諍(いさか)いとなり、フランクは一人去ってしまう。店の外には出たものの気を取り直したフランクが再度店に入ろうとすると、アリスは画家の男と出て行ってしまう。フランクはこっそり後を追う。

アリスは初めて話す相手でもあり、家の中に招こうとするフランクの誘いを断るが、その熱意に負け、家の中に入る。いろいろな絵が置いてあるへややフランクの接し方に安心したが、ついに男はアリスを襲ってしまう。アリスは激しく抵抗するうち、たまたま手の届くところにあったパン切りナイフで男を殺してしまう。・・・・・・


男のへやに、アリスは手袋を置き忘れてきたが、その一方を見つけたのは捜査に加わったフランクであった。フランクはアリスを庇い、その証拠を警察に言わずにいた。一方もう一方の手袋を持っていたのは、札付きの前科者の男だった。この男トレーシー(ドナルド・カルスロップ)がその後、二人を恐喝するために、アリスの両親が経営するタバコ屋に現われる。原題の所以だ。

タバコ屋の店先でトレーシーが二人をいびりつつじわじわと脅迫するようすは、サスペンスの味わいが濃厚でありみごとだ。わきには事情を知らぬ両親が右往左往するので、この三者だけにしかわからない、恐喝する側とこれを防衛しようとする側の駆け引きやサスペンスが、余計に際立つ。この一連のシークエンスは、本作品のポイントとなっている。


やがて、犯人は当時現場付近をうろついていたトレーシーらしいという警察本部からの連絡を受け、フランクは今度は優越した立場になり、トレーシーは、今までの恐喝はなかったことにしようと言うものの、アリスが正当防衛であっても画家を殺害したことに変わりはない。アリスが困惑するなか、そこへ警察が着いたため、トレーシーは窓を破って逃げ、最後には大英博物館館内に入り、追い詰められたのち、図書室の丸屋根によじ登るが、転落して死んでしまう。警察は、画家殺害の犯人はトレーシーだとして決着させる。

そうとは知らぬアリスは自首するが、そこでフランクと会い、ようやく、レイプされそうになり、たまたまそばにあったナイフで殺害したことを話す。それなら正当防衛になるだろうという会話を交わし、二人は警察署を出るところでエンディングとなる。


画家の家から放心状態のアリスが出てきたとき、左に影が映るのだが、順当に見るなら、それはフランクの影ととらえられるが、トレーシーが脅迫してきたことで、実はその影はトレーシーのものであったことがわかる。実際トレーシーは、画家のアパートの近くをうろついていたのである。また、画家がアリスと自宅のアパートに入ると、そこには画家宛ての手紙に混じって脅迫状があり、アリスの内緒で画家は大家の婦人にそれを持ってきた男のことを尋ねるが埒が明かず、そのままアリスとへやに向かう。この脅迫状はトレーシーからのものかどうかは定かではないが、この画家の男は以前から若い女を連れ込んでは婦女暴行を繰り返しており、これを知ったトレーシーが脅迫文を置きにきたとも想像できる。


序盤、やや冗長な感じもするが、動き出すと、一定の速度でサスペンス色が漂ってくる作品となっている。

アリスの母役はそこかで見たと思ったら、『わが谷は緑なりき』(1941年)で、気丈な母親ベスを演じたサラ・オールグッドであった。古い映画を見ていると、こうした関連を知ることがあり、感慨深い。


日常性の地平

映画レビューを中心に、 身近な事柄から哲学的なテーマにいたるまで、 日常の視点で書いています。