映画 『ジョナサン -ふたつの顔の男-』

監督:ビル・オリヴァー、脚本:ビル・オリヴァー、グレゴリー・デイヴィス、ピーター・ニコウィッツ、撮影:ザック・クーパーシュタイン、編集:トム・ヴェングリス、主演:アンセル・エルゴート、2018年、95分、原題:Jonathan


ジョナサン(アンセル・エルゴート)は、毎日午前7時に起床し、職場に行き、その後帰宅し、午後7時には就寝するという「規則正しい生活」を送っている。というのも、ジョナサンの体には、もう一人の人格、ジョン(アンセル・エルゴートの一人二役)が宿っていて、午後7時に入れ替わるからであった。ジョンは、午後7時に起き、職場に行き、午前7時に就寝して、そのタイミングでジョナサンと入れ替わっていた。

同一人物におけるこの二人の人格の規則的交替を発案したのは、女医ミーナ・ナリマン(パトリシア・クラークソン)であり、ジョナサンは定期的に、ナリマンの検診を受けていた。

ジョナサンもジョンも、カメラで自分の姿を映し、話している映像を、翌日に視聴して、相手の動向を確認し、互いに良好な関係を保っていたが、ある日、ジョナサンは、ジョンがエレナ(スキ・ウォーターハウス)という女性と秘密裏に交際していることを知り、ジョンをいびるのであった。・・・・・・


冒頭近く、洗面後のシーンで、ジョナサンの右耳の後ろに、黒く小さな装置が付けられていることがわかる。脳内に埋め込まれたこの装置によって、同じ人物が、12時間ごとに、きっちり入れ替わるというシステムだ。

着想はおもしろいし、SFのジャンルにも取り上げられているが、そうだとしても、SFらしい近未来の風景やコンピューター群が登場するわけではない。極めて日常的な生活のなかで、<それ>(=交替)は、規則的に・自動的に、行われていくのである。

その規則性が破られるきっかけになるのが、エレナとジョンの交際であり、それを、同一人物内の人格であるジョナサンが不愉快に思うことであった。


基本的に、タイトルどおり、ジョナサンが主体で描かれており、ナリマンに救いを求めたり、ジョンの暴走を抑える側に回ったりするのは、ジョナサンのほうである。二つの人格といっても、<主役>はあくまで、ジョナサンのほうである。


本作品では、ナリマンが、なぜこうした人物を作り出す必要があったのか、その手術の方法や、実現した場合の危険性など、全く触れられず、すでにそうなった状態から、話が始まっている。そのへんを一切カットしたところが、この映画の個性であり、作品をおもしろくもつまらなくもしてしまっている。

人格は二つでも、肉体は同一なのであり、ジョナサンのへやに、なぜベッドが二台あるのかも、よくわからない。

いわゆる評論家受けのよい作品ではあろうが、映画としてのエンタメ性には欠けており、いつか再度観たい、という気にはなれなかった。


全編シリアス一辺倒で進み、音楽もほとんど入らない。それだけに、くだらないおしゃべりやうるさい音を聞くことはなくて助かるが、同時に、映画に必要な要素まで、削ぎ落とされてしまっている。

登場人物が少なく、予算の関係もあったろうから、それを考えると、カメラはいろいろくふうを凝らしていて、これが限界であったろう。一方、物語性、ストーリーの牽引力、ラストに向けての収束感、ラスト近くの描写など、どうしても消化不良気味となる。特に前半のストーリー展開は冗長で、この尺が限界であろう。


死ぬよりは旅立つほうが、健全ではあったろうし、ジョナサンも救われたことになるが、そこまでに、もうひと捻りできなかっただろうか。また、それができたにしても、女性を元に始まる疑心暗鬼は、二つの人格を乖離させる要素として、それほど引き合っているとは思えない。


日常性の地平

映画レビューを中心に、 身近な事柄から哲学的なテーマにいたるまで、 日常の視点で書いています。